03/27の日記

18:18
100年たってようやく‥(17)

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こんばんは。。





「また,『銀河鉄道の夜』の最終形への移行も,『鬼神』のテーマと直接には関わらないが,弱者の認識論が主たるテーマであったと思われる。そして、そういった試みは,本論で示したように『古い鬼神』の姿を,厚い記憶の重なりの中から呼び出すことによって可能になったと考えられるのである。」(秋枝美保)




『銀河鉄道の夜』の最終形への移行」とは、このサイトに来て読んでくださるような方には周知のことと思われますが、“釈迦に説法”を承知で、まとめて言えば:




@ 〔初期形三〕では、カムパネルラの水難事故が書かれておらず、ジョバンニと列車の中で出会った時に、カムパネルラの服が濡れていたなどの暗示的な徴表があるだけです。〔最終形〕では、“銀河の旅”から戻ってきたジョバンニは、河岸で、水難事故で行方不明になったカムパネルラを捜索する人々とカムパネルラの父に遭遇します。


A 〔初期形三〕には、学校の場面も印刷所の場面もなく、ジョバンニが“牛乳屋”で断られ、川岸へ遊びに行く級友たちと行き会う場面のみ。“銀河の旅”から戻ってきた後は、ブルカニロ博士から「実験」だったという“種明かし”をされて終り。〔最終形〕は、冒頭に、学校、印刷所、ショーウィンドウ、ジョバンニの母の場面が加わり、戻ってきた後では、ブルカニロ博士が無くなって、“牧場”(牛乳屋は牧場に“変化”しています)再訪問と川岸の水難捜索が加わります。


B テーマについての大きな違いは:〔初期形三〕では、“銀河の旅”は、じつはブルカニロ博士による心理学「実験」で、ジョバンニは実験台にされて“銀河体験”の夢を見ていたという物語の“枠”があり、その“夢”の最後には、学者風の「黒い大きな帽子」の男が現れてジョバンニにお説教を垂れます。すなわち、この物語全体が、ジョバンニの受けた“講義と演習”であって、彼の地上での現実生活には何の影響ももたらしません。しかし、〔最終形〕では、ブルカニロ博士も「実験」も「黒い大きな帽子」の男も消し去られて、“銀河の旅”は、ジョバンニ自身の超常体験として自立します。そして、超常体験と並行して、港町の少年ジョバンニが、水難事故で友人カムパネルラを失うという地上での現実のストーリーが展開します。ジョバンニが“銀河の旅”で体験したことは、彼が降りてきたあとの地上の現実を大きく変化させています:カムパネルラがいなくなる/「牛乳屋」が「牧場」になる/仲間はずれだったジョバンニに級友が親しく話しかけてくる‥等々。






〔初期形三〕が、いわば架空の世界を仮に体験させて、一定の“教え”を会得させる一種の宗教的瞑想に過ぎない(心の中は変えても、現実の世界を変えるものではない)のに対し、

〔最終形〕は、“他の世界”での主人公の行動によって、戻って来たあとの“もとの世界”が変わってしまうという・タイムトラベルのSF小説と同じ構造を持っていることに注意したいと思います。



そういう意味では、“賢治教信者”の皆さまは宗教がお好きですから、ブルカニロの設定した「黒い帽子」のありがたいお説教に心酔してしまって、〔最終形〕の価値が理解できないのもむべなり‥それはもぉ無理もないことと言うべきでせうwww (言いすぎだろって? ‥あはは(^.~;)










つまり、〔初期形三〕は、「黒い帽子」の男の“講義”をピークとする一種の哲学小説のような筋でして、主人公ジョバンニも、そのための道具立てとして、単に孤独な少年として平板に描かれているにすぎません。カムパネルラが、“地上”で実際にジョバンニの友達だったのかどうかさえはっきりしません。二人の友人関係は、ブルカニロ博士が「実験」によって、ジョバンニの頭の中に“創り出した”もののようにも思われるのです。






しかし、〔最終形〕では、ジョバンニの生活状況が具体的にストーリーとして描かれており、カムパネルラとの交友や、病気の母との会話、学校、アルバイト先でのジョバンニの状況が描かれます。カムパネルラは、心理学「実験」などではなく、実際に水難事故に遭ったことが描かれ、水死したらしいこと、そして、ジョバンニの“銀河の旅”は、カムパネルラの“死出の旅”に途中まで同行した体験ないし予知夢であったことが示されます。




さて、そうすると、秋枝さんが:


「最終形への移行も,〔…〕弱者の認識論が主たるテーマであったと思われる。」



と言っているのは、どういう意味でしょうか?

ジョバンニが、“父は漁に出て帰らず、母は病気、自身が新聞配達と印刷所の活字拾いで働かなければならない”社会的弱者に属することは、〔初期形〕のときから変らない設定です。



したがって、〔最終形〕ではじめて現れたのは、「弱者」ではなく、その「認識論」だと思います。


まず、一つには、お説教をする「黒い帽子」の男や、「実験」の“種明かし”をするブルカニロ博士が出て来なくなったことによって、いっさいはジョバンニ自身の自律的「認識」の過程になったことが挙げられます。


社会的「弱者」であり、級友たちから虐げられている孤独な少年であるからこそ見えるものがあり、満ち足りた他の子供は見過ごしてしまう認識があるはずです。




〔最終形〕冒頭の「午後の授業」は、非常によく問題にされる周知のシーンですが、ジョバンニの「弱者の認識」は、ここにも仄めかされていると思います:



「『ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。』先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指さしながら、みんなに問をかけました。

 カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ気持がするのでした。

 ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。

 『ジョバンニさん。あなたはわかってゐるのでせう。』

 ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答へることができないのでした。

    〔…〕

 先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、

 『ではカムパネルラさん。』と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答へができませんでした。

    〔…〕

 〔…〕いつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。さうだ僕は知ってゐたのだ、勿論カムパネルラも知ってゐる、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがといふところをひろげ、まっ黒な頁ページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云はないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、さう考へるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあはれなやうな気がするのでした。」(最終形)☆






☆(注) ここには、“ふたりだけの内密の認識”というモチーフがあります。賢治と嘉内の同性愛をモデルとして想定する意味は、まさにそこにあるし、1917年・岩手山で実際に彼らに起きた“銀河の誓い”という現実体験が反映しています。このモチーフは、兄妹愛をモデルとしても、作者の“誰それ女性との恋愛”をモデルとしても、語れないでしょう。しかし、今は、このモチーフはしばらく擱いて、ジョバンニの“弱者の認識論”という・もう一つのテーマの展開に集中してみたいと思います。









つまり、ジョバンニは、近代的・科学的な宇宙像と知識への憧れを強く持ちながら(カムパネルラの家で、カムパネルラと二人で望遠鏡写真に見入ったのは、その現れ)、


他方で、そうした知識にどうしても納得できないものを感じているのです。


それは、近代化されない素朴な宇宙認識といったものだと思います。草下英明さんは、これを「原始感覚」「原始人の感覚」と名づけて、自然や宇宙の現象に対する驚きを、素朴な言葉で表現する幼児の感覚に近いものだとしています。「弱者の認識論」とは、そういうことかもしれません。。。




ジョバンニは、その“弱者の認識”を、持ってはいても、それを言葉にすることができない(自分でも“よく分からない”)

カムパネルラのほうは(「弱者」ではないので)その内容が分からない。ただ、“弱者の認識”を持つジョバンニに心惹かれているために、遠慮したような行動をしてしまう‥、あるいは、それを、“突きつけられた刃(やいば)”のようにさえ感じているかもしれません:



「ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

 〔…〕風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはづれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。

 そこから汽車の音が聞へてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

 あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。

 ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。」(最終形)







ちなみに、(秋枝さんの話からは離れるかもしれませんが)このような二人の関係は、ひじょうに示唆的でもあり、何か大きな問題の入口のようにも感じられます:


カムパネルラには“弱者の認識”の何たるかが分からないのに、彼は非常に強くそれに惹かれる。それが分からないということが、「博士」の子で秀才で、皆から敬愛される彼には、汚点のように感じられるかもしれません。“水難”での彼の自己犠牲的行動と、その結果としての水死は、“弱者の認識”をも我がものとしたいという・カムパネルラの“不可能な願い”の結末ではなかったか?

しかし、“弱者の認識”に接近することは、カムパネルラには最後まで不可能です。彼は最後には、「あすこにゐるのはぼくのおっ母さんだよ」と言いながら至福の天上へと消えて行ってしまいます。。。 (布で顔を被って病臥しているジョバンニの母──自らは授乳するどころでなく、牛乳を持って来いと息子を急かす母──とは、なんという違いでしょうか)



これに対してジョバンニは、“弱者の認識”を持っていながら、それを自分のものだと感じることができない。列車の中で、カムパネルラが女の子と、美しい銀河風景(それこそがジョバンニの“弱者の認識”そのもの)を愛でながら話し合っているのを見て、烈しい嫉妬にとらわれるのは、まさにそのためです。“おまえ[女の子]なんかに分かってたまるか!”






ちなみに、獲った鳥をチョコレート菓子にしてしまう「鳥獲り」は、ヘンゼルとグレーテルの魔法使いの老婆に相当する“先住者”です。

だから、ジョバンニは、「鳥獲り」が自分たち子供を騙そうとしているという疑いを捨てることができないし、同時に「鳥獲り」が“かわいそうだ”という思念にとらわれるので、分裂した心の葛藤を免れないのだと思います。


ジョバンニとカムパネルラは、チョコレートを食べてしまいますが、(グリム童話だとすれば)うかつだったかもしれませんね。

ヘンゼルにされたのは、カムパネルラのほうでしょうか?‥だとしたら、ジョバンニは、石炭袋の近くの野原へ、カムパネルラを助けに行かなければいけませんね。。。




しかし、彼らも反省したのでしょう。鳥のチョコレートの後で、他の乗客からリンゴをもらったときには、二人は食べないでポケットにしまいます。(食べませんよw ふたりとも食べてませんよ(笑) うそだと思ったら、新潮でも角川でも青空でも、どれか立ち読みして確かめてくださいな‥)


おかげで、白雪姫のように仮死状態にはならないですみました。






ばいみ〜 ミ





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カテゴリ: 宮沢賢治

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