03/26の日記
16:21
100年たってようやく‥(16)
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こんばんは。。
「賢治の後半生の作品を見ると,このように近代化の過程で切り捨てられていく弱者の声を聞き取り,この世に出現させることに意を注いだのではないかと思われてくる。たとえば,これと同じ構造を持っているのが『風の又三郎』であることも指摘しておきたいと思う。」
↑ここで秋枝さんの言う・『風の又三郎』と「同じ構造」とは、どういうことでしょうか?
秋枝さんの・おそらく将来いつか発表される『風の又三郎』論が待ち遠しいわけですが(^^)、‥ギトンなりに考えてみますと:
『風の又三郎』は、山奥の小学校(全学年1教室で、先生もひとりしかいない)にやって来た高田三郎という転校生が、ほんとうに都会から来た転校生なのか、それとも、《異界》の存在である伝説の《風の又三郎》が転校生に化けているのか‥、同級生たちの転々する思惑が、この童話のテーマだと言えます。
その転々する「三郎」像は、大人が読んでもゾッとするような眩暈を免れないほど迫真性にみちた謎として描かれています。
真実はどちらなのか?‥単なる転校生だったのか?‥妖精ないし妖怪的存在だったのか?‥最後まで読んでも、確信を持って言える読者はいないと思います。
一方で、「高田三郎」は、都会から来た子供であり、父はモリブデンの鉱脈を探しに来た技師であり、山村の子供たちから見れば文明の化身のような存在です。
しかし、彼にはいつも不思議な雰囲気がまつわりついており、しばしば級友たちには、この子供の服装や姿が、いきなりこの世ならぬものに変って見えることがあります。
そして、彼の実体と疑われる《風の又三郎》は、道に迷って深い谷に転落しそうになるような人間界の果ての山の世界、村人たちの恐れる世界を、自由に飛び回っている存在なのです。
物語の終幕近く、子供たちが川の淵で泳いでいて、驟雨に見舞われた時、ほかの子供たちはみな岸に避難しているのに、三郎ひとりが遅れて泳いでいると、誰が歌うともなく“又三郎の歌”が聞こえてきます:
「そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだしました。
淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまいました。
みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこわくなったと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなのほうへ泳ぎだしました。
すると、だれともなく、
『雨はざっこざっこ雨三郎、
風はどっこどっこ又三郎。』と叫んだものがありました。
みんなもすぐ声をそろえて叫びました。
『雨はざっこざっこ雨三郎、
風はどっこどっこ又三郎。』
三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵からとびあがって、一目散にみんなのところに走って来て、がたがたふるえながら、
『いま叫んだのはおまえらだちかい。』とききました。
『そでない、そでない。』みんないっしょに叫びました。
ぺ吉がまた一人出て来て、
『そでない。』と言いました。
三郎は気味悪そうに川のほうを見ていましたが、色のあせたくちびるを、いつものようにきっとかんで、『なんだい。』と言いましたが、からだはやはりがくがくふるえていました。」(風の又三郎)
この場面は、‥三郎は、やはり本当に《異界》の存在だったのではないか、「雨はざっこざっこ‥」の歌声は、《異界》から、《又三郎》である彼を呼び出す声なのではないか?‥と強く疑わせる部分です。
その証拠に‥まるでその疑いを立証するかのように、この場面は、三郎が級友たちの前に、そして読者の前に姿を見せた最後の場面となってしまいます‥。旧友たちは翌朝、先生から、高田三郎は、父の仕事の急な変更のために去って行ったと告げられるのです。時あたかも“二百十日”であり、三郎が実は《又三郎》で、風を起こす妖精としての“仕事”のために《異界》から呼び出されて去ったのだとすれば、ぴったりと辻褄が合ってしまうのです。。。
“先住民”のスキームにしたがって言えば、こうなるでしょう:
山の分校の子供たちは、過去・現在の“先住者”が住む《異界》との境界に直接接して生活する者たちです。「三郎」は、境界の向こう側から隠密にやって来た“先住者”の子供かもしれないし、逆に、“文明”の光を帯びて中心部からやってきた都会の子供なのかもしれない。
彼がそのどちらなのかは、この“辺境”の子供たちにとってはとても重要なことであるのに、子供たちはそれを見分けることができないのです。。。
ばいみ〜 ミ彡
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