03/22の日記

21:33
100年たってようやく‥(12)

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こんばんは。。





この「石塚」という題名の付いた作品106番は、5月18日の日付になっていますが、じつはこの日は、賢治が花巻農学校の生徒たちを連れて北海道への修学旅行に出発した日なのです。

じっさい、19日以降の日付には、旅行中の各地での港やら牧場やらでのスケッチが並んでいるのですが、この「石塚」だけは、従来、それら《修学旅行詩群》の中には入れられていませんでした。



たしかに〔下書稿(一)〕を見ただけでは、修学旅行とは関係がないようにも見えます。

しかし:


「(わたくしはなぜ立ってゐるか

  立ってゐてはいけない

  鏡の面にひとりの鬼神ものぞいてゐる」


という字下げ括弧書きの部分は、〔下書稿(二)〕では:


「(おまへはなぜ立ってゐるか

  立ってゐてはいけない

  鏡の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる」


に改められているのです。




〔下書稿(二)〕は、修学旅行から帰って来てから書き改めたものだとすれば、作者は、北海道で白老のアイヌ部落を見学した印象(5月22日に生徒たちを引率して見学し、「役場吏員案内にて、酋長の宅参観」(白藤日記))を加えて、北海道のアイヌに関わる作品にしていることになります。


あるいは、もともと、〔下書稿(一)〕からすでにアイヌを意識した作品で、22日の見学の直接のスケッチではなく、旅行全体に関わる“序文”的な随想として、旅行出発日の日付で書き下ろしたのかもしれません。

そのように考えれば、〔下書稿(一)〕の「鬼神」もやはり、“先住民”を指す言葉として理解してよいと思われるのです。「鬼神」は、おそらくアイヌだけでなく、作者としては、広く歴史のかなたの“蝦夷”まで含めてイメージしているように思われます。




「一本の緑天蚕絨の杉の古木が

 南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる

 その狂ほしい塊りや房の造形は

 表面立地や樹の変質によるけれども

 またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて

 三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共にいまわれわれの所感を外れた

        古い宙宇の投影である」



「杉の古木」と、その「樹陰」に「三つ並んだ‥赤い石塚」は、秋枝さんが説明しておられるように、

 「過去の歴史を現代に伝える記念碑的なもの」

として描かれています。



高等農林時代から『春と修羅・第1集』にかけての時期には、こうしたモニュメント的な木立ちは、作者の個人的な友情や愛情、恋人との誓いと熱情を象徴するものでした。

しかし、いま『第2集』以降は、意味が変ってくるのだと思います。それは、作者が、サハリン旅行、関東大震災などの体験を経て、“先住民の歴史的実存”という、より広いパースペクティヴを持つようになったからだと思います。



いずれにしろ、宮沢賢治は、岩手県の各所に点在するこれらの“伝承・信仰の場所”を、個人的あるいは公的な秘められた意味をもつ史的モニュメントとして捉えていたのです。





しかし、この〔下書稿(一)〕で、ギトンがより注目したいのは、その先の:


「われわれの所感を外れた/古い宙宇の投影である」



という詩句です。前のほうから文脈を追ってみますと、この「古い宙宇の投影である」の主語は、

 「杉の古木」の「狂ほしい塊りや房の造形」

です。巨大化した老木の太い幹や枝にできた不定形な亀裂や瘤を言っているのだと思いますが、それらは、

 「われわれの所感を外れた」世界

の「投影」だと言うのです。


つまり、私たちには見えないし、感じることもできない、そういう世界があって、そういう・いわば《異界》に生息する存在が、「杉の古木」の「狂ほしい」形となって、私たちの世界に投影しているということです。



秋枝さんの理解によれば、「鬼神」とは、この樹木の神です:

「古い樹木に住む鬼神と赤い石塚が〔この詩の──ギトン注〕主体で、鬼神は樹木の神であり、その二つが我々の所感では捉えることのできない『古い宙宇』を投影させているという。そういった場所は『花巻一方里』に『七箇所を数へ得る』とあるが、賢治にとって古い時代の記念碑のような場所が花巻には数ヶ所あったということであろう。」





しかし、より重要なのは、私たちの眼に見えない・感じることもできない《異界》に住む「鬼神」が、こちら側の世界に現れる場所が、「杉の古木」であり、当時「花巻には数ヶ所あった」という霊的スポットなのです。作者が、その《異界》を、「古い宙宇」と呼んでいることも重要です。つまり、ここでは、《異界》は、単なる現在どこかにある未知の世界などではなく、遠い過去がそのまま永劫に存在する世界なのです。

したがって、この「鬼神」は、遠い昔の“蝦夷”であり、アイヌの祖先でもある‥つまり、古い時代に存在し、しかも、私たちに感じられようと感じられまいと、決して消えてしまうことはない“先住民”だと考えてよいのだと思います。





そこで、問題は、この詩の後段で「鏡の面」に映って現れる「ひとりの鬼神」あるいは「アイヌ」との関係だと思います。

というのは、この「鬼神」あるいは「アイヌ」を、前段で述べられた《異界》の存在と、かんたんに同一視して、“亡びゆく者”とする解釈には、ギトンはやや異和感を覚えるのです。

しかし、だいぶ長くなりましたから、後段については、また明晩、検討してみたいと思います。












ばいみ〜 ミ
   
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カテゴリ: 宮沢賢治

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