03/21の日記

20:33
100年たってようやく‥(11)

---------------



こんばんは。。




きのうにひき続いて秋枝さんの講演フォローです。



『狼森と笊森、盗森』は、池澤さんと秋枝さんが示したスキームにしたがって読みすすめてゆくと、まるで、もつれた糸をほぐすようにスルスルと、童話のストーリーに織り込まれたメタファーが解けて見えてきましたが‥



これが、詩となると、なかなか読み解くのは容易ではありません。







宮沢賢治の口語詩──《心象スケッチ》は、省略が多かったり、作者独自の意味やイメージを込められた言葉が多くて、書かれている表面的な意味さえ、いちど読んだだけではよく分からず、なんとも掴みがたい印象が残るだけだからです。。。





公刊された『春と修羅・第1集』には、化学・地質学や仏教の専門用語も多いですけれども、それらは専門の辞書を引けば意味は分かるので、むしろ扱いやすいほうかもしれないのです。


ほんとうに難物なのは、国語辞典にも外国語辞典にも専門分野の辞書にもまったく出ていない・ふつうの言葉のほうかもしれません。。。 なんでもないふつうの言葉なのに意味が分からない‥それらは、秋枝さんの言い方を借りれば、賢治詩歌の《象徴体系》に属する意味をになっている言葉であって、いわば“本歌取り”です‥ほかの賢治作品(とくに短歌群)と照らし合わせてはじめて意味が通じるのです。。。

そして、数ある『宮沢賢治用語事典』の類も、そういう言葉は、まったく扱っていないのです。。。




秋枝さんが取り上げている作品について、ここで詳細な検討をするのは無理ですし、ギトンにはその用意もありません‥いつか、Eブックのほうで扱うことをお約束する以外に、今できることはないのが実際です‥



しかし、“先住民”(アイヌ、蝦夷、‥)に関わるスキームのもとで、これらの詩作品を読んでみると、そこに、今まで見えてこなかった深奥をかいま見る思いがするのも事実です。


そうやってギトンが得た印象──まだ、はっきりとした言葉には、しにくいのですが‥──をまじえながら、秋枝さんの議論を、簡単に追ってみたいと思います。






さて、最初に取り上げられているのは、作品番号 106番、1924年5月18日の日付がある〔日はトパースのかけらをそそぎ〕です。これは、『春と修羅・第2集』の収録範囲に属します。

『第2集』のほかの作品と同様に、この106番も、推敲・改稿によるいくつかの逐次形が残されています。

まず、もっとも古い〔下書稿(一)〕から:







「   石塚・


 日はトパースのかけらをそそぎ

 雲は酸敗してつめたくこごえ

 ひばりの群はそらいちめんに浮沈する

 一本の緑天蚕絨の杉の古木が

 南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる

 その狂ほしい塊りや房の造形は

 表面立地や樹の変質によるけれども

 またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて

 三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共にいまわれわれの所感を外れた

        古い宙宇の投影である



   (わたくしはなぜ立ってゐるか

    立ってゐてはいけない

    鏡の面にひとりの鬼神ものぞいてゐる

              第一九頁)

 およそこのやうに巨大で黒緑な

 そんな樹神の集りを考へるなら

 わたくしは花巻一方里のあひだに

 その七箇所を数へ得る」










ばいみ〜 ミ
     .
.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ