03/18の日記

01:37
100年たってようやく‥(8)

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こんばんは。。




FC2 で日記を書いていた時には‥ あそこは、当日の午前0時にならないと日記が公開されないしくみなんですね。先日付で書いておけば、無理して毎日書かないでも、自動的に毎晩新しい日記が公開されるしくみです。

見られずに、いろいろ直したりできます。



しかし、ここは、先日付の日記もぜ〜んぶ見えてしまうんですよね←



なので、だいぶ勝手が違うんですが‥ 先日付で書き溜めておくという長年しみついたクセは容易に改まりそうもありません。。。

変に思われましたら、ご勘弁ください。舞台裏が覗けておもしろい‥という向きは、どうぞご随意にw





さて、宮沢賢治は、1933年に 37歳で亡くなっておりまして、最初の作品が世に出た 1921年(『愛国婦人』に掲載された童謡「あまの川」)から数えると、彼の作家活動の期間は足掛け 13年です。それ以前に、中学時代からの短歌群、高等農林時代に同人誌《アザリア》に書いた初期短篇群、弟・妹たちに読んで聞かせた初期童話群があるわけですが、社会と繋がった作家期間としてはわずか13年間に、量的にも質的にもこれだけの作品を創り出した人は、珍しいのではないかと思います。

まさに、短い生涯を、ものすごい勢いで駆け抜けた──という言い方(宮沢清六氏)があてはまる人だと思います。

池澤さんのシンポ講演から抜書きしますと:




「宮澤賢治が書いたのは、怪しきものたちが蠢く世界、〔…〕秩序が失われてしまっている時代なのではないかという嘆きを、大変に多種多様な技法と話題で書いた。書くべきことが自分の中にあんなにたくさんあって、次から次へ書いた。書き上げる間もなく次に、時には断片のまま放置して先へ行く。与えられた人生が短いことを最初から知っていて、生き急ぐ。できる限りのことを残さなければいけない。後の始末は皆に任せるというふうに駆け抜けた人生のように見えます。」






「与えられた人生が短いことを最初から知っていて、」と池澤さんは述べておられますが、(少し賢治を調べている人には周知のことですが)これは憶測でも誇張でもなく事実です。はっきりとした証拠もあります。《アザリア》の同人の一人・河本義行が、同じく同人の保阪嘉内に送った葉書です:

「今日も今日とて、宮澤氏は肋莫にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと。淋しい 限りなく淋しいひびきを持った言葉を残して汽車に乗った。」(1918.7.9.消印)






賢治は、その少し前、6月30日に岩手病院(現・岩手医科大付属病院)で診察を受けていて、本人は正確な病名を自分の手紙には書いていないのですが、肺結核につながる肋膜炎の発症だったと思われます(花巻共立病院長・佐藤隆房氏の推定)

そして、じっさいに15年後の1933年に病死しているのですから、予知能力があったのか、偶然なのか、もっと早く死んでもおかしくなかったのを、「15年」と信じてがんばったのか?‥

ともかく、「生き急ぎ」は、意識的な生き方だったのです。





ところで、池澤さんがこのことに言及した眼目は、



「次から次へ書いた。書き上げる間もなく次に、時には断片のまま放置して先へ行く。〔…〕できる限りのことを残さなければいけない。後の始末は皆に任せるというふうに駆け抜けた」



と仰っている部分だと思います。



つまり、賢治の作品は、詩も童話も、小説の梗概のようなものもすべて、「書き上げる間もなく次に、時には断片のまま放置して〔…〕後の始末は皆に任せる」という「生き急ぎ」「書き急ぎ」の所産なのです。




さすがに、現役の作家は、だいじなところに眼を注いでいると思います。



「永遠の未完成、これ完成なり。」




という賢治の有名なフレーズがありますが、それでも賢治自身はやはり、未完成なものは未完成と意識していたのだと思います。



私たちが、いま、活字になった形で読んでいる彼の作品の‥詩や童話のかなりの部分は、「不十分」とか「発表不可」とかの本人のメモが記されている原稿なのです‥




しかし、『春と修羅』『注文の多い料理店』のように発表された作品についても、それらは、「後の始末は皆に任せる」というものだと思います。

つまり、宮沢賢治は──とくに詩は──、読者がいきなり読んで理解できるように書いてくれてはいないということです。

そういう親切な書き方をしているひまはなかった。次から次に湧いてくる詩想を、いかにして漏らすことなく、短い言葉で書きとめるか──彼の工夫は、もっぱらそこに向けられたのだと思います。

彼の詩に現れる古今東西の作品を示唆する片言半句──ベートーヴェンも、アラビアン・ナイトも、レ・ミゼラブルも、みなこの、短い語に広大な内容を盛り込むための“本歌取り”だったのだと思います。





このことは、受容の初期にすでに宮沢清六氏によって指摘されていました:

「先刻手帳へ『陰気な郵便脚夫のやうに』と書いたときから、彼の持っている時計の秒針は二秒とも経ぎていないのに、彼の気持の方は、何時間もの間、アラッディンの譚や、その物語からすぐにやって来るアラビアン・ナイトへの連想や、その夜話の英訳書にある綺麗な三色版の挿画や、続いてその物語を主題とした、リムスキー・コルサコフの4つの交響曲「シェラザード」のことなどまで走馬灯のように思い出すのである。〔…〕

 さて今彼が計画し、〔…〕これから書こうと思っている心象スケッチという難事業について、第一の難関は、この一度に飛躍し、無軌道に奔翔する心象の明滅を、どんな風にして詩に書き表わすかという問題である。
 〔…〕
 何故ならば、今の二秒間の考えを、若しも仮に全部書き取ることに成功したならば、此の詩の中へ数冊の詩集や、童話集のようなものや、音曲集の類まで入れなければならないし、〔…〕

 そこで、彼はいろいろ考えた末、此の“アラツディン 洋燈とり”という言葉を括弧で括り、三字だけ下げる方式によってこの飛躍した心理記録に変え、〔…〕」(『兄のトランク』,ちくま文庫,pp.104-105)



あるいは、作者自身が森荘已池に宛てた有名な手紙の一節でも:

「ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。」

と書いています。もっと詳しく書かなければ他人には分かってもらえない‥それは十分に承知していますと言いたいのではないでしょうか?










そういうわけで、宮沢賢治の作品、とくに詩は、いろいろな知識を調べて“勉強”しないと分からない‥こんなものは文学ではない、という人がいます。あるいは:

詩や童話を、なぜ「解読」しなくてはならないんだ!?‥読者それぞれの“賢治”を読み取っていれば、それでいいじゃないか!‥と言う人もいます。






しかし、賢治自身は、「解読」されることも「研究」されることも予定していたのだと思います。自分で説明するひまがない以上、「後の始末は皆に任せ」て書き急いだのですから。。。









ばいみ〜 ミ
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カテゴリ: 宮沢賢治

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