03/17の日記

17:22
100年たってようやく‥(7)

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こんばんは。。。





さて、池澤さんによると、『アイヌ神謡集』に描かれた世界は、「秩序が保たれた世界」です:

「ここにあるのは物事がうまくいっている社会で、何が、どこで、どう機能しているか、誰が、どこで、どういう働きをしてアイヌの人たちが生きた社会の幸福を保障していたかということをどうしても考えざるをえない。〔…〕よくないことが起こらないように要所、要所に智恵が配布してあって、きちんと運営されていた、自律的に進んでいた。〔…〕狩猟採集で自然に〔対して──ギトン注〕食物、衣類、住むところを仰いで、その生き方を全体的に肯定していく、それをうべなって、その上に人の暮らしを組み立てていく、そのからくりと智恵が、実は結局のところ、全部の話を貫いているんですね。」


じっさいに『アイヌ神謡集』を読んでみて、ギトンはちょっと違う感じも受けるのですが‥、それは今は置いておきます。ここは『アイヌ神謡集』を論じるのが目的ではありませんから。



池澤さんが、これと比較するのは、宮沢賢治の童話集『注文の多い料理店』です。

「宮沢賢治が書いているのは、それ〔知里の「秩序のある幸福が保障された社会」──ギトン注〕が終わってしまって、秩序が維持できなくなって、さまざまに綻びる、そこのところで怪しいものどもが蠢いている世界です。〔…〕先住民がいるところに、後から強い者が行って、先住民を自分たちの支配下に入れ、自分たちの言葉を使わせ、法律をつくってそれに従わせる。そういう形での〔…〕出会いが東北の中でも古い段階に起こっている。宮澤賢治が書いているのは、結局のところ、その過程ですね。東北の成り立ち、東北がいかにしてつくられたか、本来いた人々のところに後から来た人が何をしたか、どう働きかけて、その結果、何がどう変ったかという物語のさまざまな例であると思います。」


宮沢賢治の《心象》世界に現れる《異界》というものも、↑このスキームで言えば、先住民にほかならない。圧迫されて秩序を破壊されて変質してしまった先住民の世界が、《異界》であり、化け物の世界なのです。




ところで、『注文の多い料理店』────よく考えてみると、この童話集には、稲もお米も全然出てこないんじゃないか?‥これは、農村童話集としてはいかにも奇妙なことです。

『狼森と笊森、盗森』でも、入植者たちがこさえて森に贈物として届ける餅は、粟餅ではなかったかと思います。『鹿踊りのはじまり』では、米をしょって出かけますが、じっさいにストーリーの中で役割を与えられているのは、お米のおにぎりとかではなくて、栃団子です。





賢治作品の中で、稲作が本格的に現れるのは、『春と修羅』【第4章】1922年6月の「青い槍の葉」あたりが最初ではないかと思います。【第1章】の最後の「おきなぐさ」「かはばた」でも、【第3章】「小岩井農場」でも、稲が出てこなくて、燕麦やらトウモロコシでした。







その「青い槍の葉」ですが‥、これが:


「ひのきのひらめく六月に

 おまへが刻んだその線」(雲とはんのき)




なのだとすると‥、稲作が現れ、「角礫行進歌」が現れ、(これらは国柱会の『天業民報』にも掲載されます)農民を統率して農村を指導してゆくということになると。。。 征服する側の一翼を担うことにならざるをえない‥ そこのところが:


「やがてどんな重荷になって

 おまへに男らしい償ひを

 強ひるかわからない」(雲とはんのき)



という意味なのかもしれません。。。 そして、それを警告している「手宮文字」とは、まさに先住民の文字です‥







この時点で(「雲とはんのき」を書いて入稿した1923年末の時点)、賢治は、こうした危険な構図に気づいたわけです。そこから、作品「鎔岩流」の、「農民シャツ」という自己規定が出てきます。つまり、指導者ではない。。。







(当時もなお、保阪との間に手紙などの連絡があったことが前提になりますが)保阪は、その農村指導者の方向に進んで行きます‥

しかし、賢治は自分の行く手に自らストップをかける。「北ぞらのちぢれ羊」に向かっていたのが、きびすを返して南方へ向かう。

賢治が、関東大震災を機に、そういう方向転換を選んだのは、もともと、稲作の民の指導者ではない“山の民”(「復活の前」で、山の中の祠に住んでお釈迦様をお祭りしたい、などと書いていました)への志向を持っていたことが底流にあるのではないでしょうか。





そういえば、↓こういう短歌もあります:


「岩鐘のまくろき脚にあらはれて

 稗のはた来る

 郵便脚夫」(583a584)




山の稗畑を詠んだ歌は、ほかにもたくさんあります。いずれも、荒れ果てた淋しい風景としてです。それに「郵便脚夫」がつながるとしたら、「屈折率」で、作者が「郵便脚夫」のように歩いている意味は、何なのでしょう‥⇒:『ゆらぐ蜉蝣文字』1.1.2




《異界》あるいは先住民の世界を、“まち”と繋ぐ者ということでしょうか?

それは、「古風な信仰」(くらかけの雪)を求めて向かう者に、ピッタリと繋がるのです。⇒:『ゆらぐ蜉蝣文字』1.2.5














ばいみ〜 ミ
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カテゴリ: 宮沢賢治

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