03/16の日記

18:26
100年たってようやく‥(6)

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こんばんは。。。




流布される言葉は、それが正しいのかどうか、「実験」によって確かめられていない以上、疑わしいと思わなければならない。

宮沢賢治は、そう考えたはずです。






きのう引用した池澤さんの発言に、↓こういう部分がありました:

「征服する側には武器があるし,〔…〕言葉を強制する。あるいはイメージをつくって流布させる。」



“辺境”を征服し、先住民を周縁部に追いやってゆく“中心部”の膨張のエネルギーは、イデオロギー(宮沢賢治は、この言葉を何度か使用しています)によって方向付けられます。

周縁部(辺境)に眼を向け、先住民が次々に追いやられてゆく状況を“記録”しようとする者は、“中心部”のイデオロギーから自由でなければなりません。“中心部”のイデオロギーは、そこに住まう者の眼を曇らせ、そのエネルギーを膨張に向かって方向付け、そうして眼を塞がれた者には、それが当然のこととしか思えなくなり、方向付けられていることにさえ気づかなくなるからです。

しかし、ひとくちに“自由になる”と言っても、それは非常に難しいことです。「実験」のしかたが具体的に分からない──じつは「実験」によっては決められないことがらなのかもしれないのですが──以上、何が正しいか、確信が持てないからです。





そこで、宮沢賢治が実践したのは、“中心部”以外の方向から聞えてくる言葉に耳を傾けてみる──という方法でした。かれは、それを「まことのことば」と名づけたのです。

もちろん、「まことのことば」と名づけただけで、それが正しい言葉になるわけではありません。「実験」をしたわけではないのですから。。。



しかし、《自然》のかなたから、あるいは、ふだんは誰も気づかない《無意識》から、聞くともなく聞えてくる「きれぎれのことば」は、人為から遠いという点で、「実験」を経たものに近いと、賢治は考えたのかもしれません。




ともかく、この詩人?──このような探究をする人は、詩人なのか、科学者なのか、宗教家なのか‥、賢治自身にも不明でした──の残した作品には、風が運んでくるような、あるいは大地からゆらぎたつような、「きれぎれ」の断片的な言葉を、なんとかして聴き取ろうとしているふしが見られるのです:







「そらにはちりのやうに小鳥がとび

 かげらふや青いギリシヤ文字は

 せはしく野はらの雪に燃えます」(冬と銀河ステーション)






「風の透明な楔形文字は

 暗く巨きなくるみの枝に来て鳴らし」(#75「浮世絵」1924.4.20.[下書稿(一)])







「その窪地はふくふくした苔に覆はれ、所々やさしいかたくりの花が咲いてゐました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却てそのつやつやした緑色の葉の上に次々せはしくあらはれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。

 『はるだ、はるだ、はるの日がきた、』字は一つずつ生きて息をついて、消えてはあらはれ、あらはれては又消えました。

 『そらでも、つちでも、くさのうへでもいちめんいちめん、ももいろの火がもえてゐる。』」(若い木霊)





「そして、ほんたうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いてゐるとほんたうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。」(サガレンと八月)









ばいみ〜 ミ





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カテゴリ: 宮沢賢治

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