ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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 【2】《補論》 鶯とデモンと“走れメロス”



9.2.1


【24】「小岩井農場・パート1」に、↓つぎのような括弧書きの詩句があります(77-78行目):

. 春と修羅・初版本

68そしてこここそ畑になつてゐる
69黒馬が二ひき汗でぬれ
70犁(プラウ)をひいて[往]つたりきたりする
71ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ
72山ではふしぎに風がふいてゐる
73嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる
74ずうつと遠くのくらいところでは
75鶯もごろごろ啼いてゐる
76その透明な群青のうぐひすが
77 (ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の
78  ハンスがうぐひすでないよと云つた)

この「ドイツ語読本のハンス」は、例によって、ここでいきなり脈絡なく登場した“謎の文句”なのですが、ギトンがまず思いついたのは、アンデルセン童話の『うぐいす』(『ナイチンゲール』 Der Nachtigall☆)です。

☆(注) 原題:Nattergalen. ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、言うまでもなくデンマークの作家であり、彼の童話も小説も詩もすべてデンマーク語です。しかし、当時、ドイツ語訳(著名訳はレクラム文庫に収録されていたデンハルト訳)が広く読まれており、宮沢賢治も、日本語訳のほかはドイツ語訳で読んでいたようです。というのは、『絵のない絵本』「第28夜」から作った連作短歌に、「『聞けよ』(„Höre,")/また、/月はかたりぬ/やさしくも/アンデルゼンの月はかたりぬ。」(歌稿B #600)と、ドイツ語を括弧書きで入れており、また、この『歌稿B』でも、保阪宛て手紙(1918.12.16.[95])でも、「アンデルン」とドイツ語式発音で書いているからです。ちなみに、当時、『絵のない絵本』の独語訳は何種類か出ていましたが、賢治が読んだのはアメリカで出版された School Edition(Bilderbuch ohne Bilder von Hans Chrinstian Andersen. Illustrated School Edition. With English notes and a German-English vocabulary by Dr. Wilhelm Bernhardt. Boston, D.C.Heath&Co.,Publishers,1900. (c)1891 by W.Bernhardt. Preface: W.Bernhardt, Washington High School, Washington D.C., 1891. ⇒リンク)ではないかと思います。というのは、『春と修羅・第2集』所収の #508「発電所」1925.4.2.〔下書稿(一)〕に、「(それでもわたくしは画工です(ドッホビンイッヒアインマーラー))」という詩行があるのですが、これは『絵のない絵本』(前書き部分)からの引用句と見られます。独語訳として広く読まれているレクラム文庫の Edmund Zoller訳では:「und doch bin ich Maler, das sagt mir mein Auge,」となっていて、「マーラー(画工)」が無冠詞です(ドイツ語では、職業や出自を名乗るときには、通常は無冠詞です:Ich bin japaner. 私は日本人です)。アンデルセンのデンマーク語原文でも、無冠詞の不定形名詞になっています:"og dog er jeg maler, det siger mit øje mig," ところが、賢治は「アイン」という不定冠詞を付けているのです。そこで、「マーラー」に不定冠詞をつけた独語訳を探してみたところ、上記の School Edition に当たりました:「und doch bin ich ein Maler, das sagt mir mein Auge,」

アンデルセンの『うぐいす』のあらすじは、3.2.7 『うぐいす』←こちらで見ていただくとして、この童話は、

 “世間の人々は、にせもの(のウグイス)を持てはやして、本物(のウグイス)をないがしろにする”

という作者アンデルセンの主張に主要なテーマがあるようです。その点で、宮沢賢治にも通じるところがあったと思われます。

とくに、この「小岩井農場」の場面は、作者(賢治)が、農場から来たお迎えの馬車に乗せてもらえず、「オリーブのせびろ」を着た「農学士」風の若い紳士を乗せた馬車の後ろからとぼとぼ歩いて行く状況ですから、77-78行目は、このアンデルセン童話のテーマを暗示していると考えられ、「ハンス」は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンを指していると考えられるのです。

しかし、それでもなお、この括弧書き2行の周辺は:

. 春と修羅・初版本

74ずうつと遠くのくらいところでは
75鶯もごろごろ啼いてゐる
76その透明な群青のうぐひすが
77 (ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の
78  ハンスがうぐひすでないよと云つた)

となっていて、「ハンス」=アンデルセンとしただけでは、なにか、しっくりしない感じが残るのです。。。

「ほんたうの鶯」は、76行目の「透明な群青のうぐひす」と、どんな関係にあるのか?‥アンデルセンが“本物のウグイス”を蔑ろにしているかのような言い方の真意は何なのか?‥そもそも、「ドイツ讀本」とは何か?『アンデルセン童話集』を「ドイツ讀本」とは、ふつう言わないではないか?‥等々。。。
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