ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.1.2


しかし、2004年の時点で、秋枝美保氏は、つぎのように述べておられます:

「『春と修羅』研究においては、対象
〔収録された作品群──ギトン注〕をどう捉えるかということがまず問題である。これまでの捉え方は、主として『詩』として見る見方と『記録』として見る見方の二つに分けられる。〔…〕

 その記録性の指摘は、その写実性や『心象スケッチ』という方法について問題を広げて行った。〔…〕しかし、『心象スケッチ』のあり方については、栗原敦が〔…〕『『春と修羅』第一集の時期を過ぎるに従って、その質、あり方を変えてゆくことになったのではないか』と述べ、そこに記録を超える『完全に許されたフィクション』への道をみようとしていた。そのころから、『心象スケッチ』についての研究は、現在に至るまで『第二集』以後のスケッチの推敲の状況、動態を細かく追う方向へと議論の中心が移行していったと言える。〔…〕

 しかし、これらの『心象スケッチ』研究の原点となる『春と修羅』
第一集──ギトン注〕における研究は意外に進んでいない。入沢康夫によって、残存する『心象スケッチ』原稿の整理が示され、詩集の生成過程について示唆に富む発言がなされたが、その方向の研究はそれほどの進展がないと言って良い。」杉浦静、奥山文幸によって、「小岩井農場」の推敲状況を踏まえた指摘がなされているにとどまる。「これらの指摘は、『春と修羅』第一集成立の背後に、賢治の重大、かつ決定的な心象の展開があったことをうかがわせるものであるが、その内実についてはこれまでのところこれ以上の言及がない。」

★(注) 秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,pp.22-24.

つまり、『春と修羅(第1集)』については、研究者もこれを‘素通り’している現状があるのかもしれません。
そうなってしまう理由は、なんとなく分かります。とにかく、この本は“ひとすじ縄”で行かないのです。手がかりがあいまいで、一種の“冒険”をしなければ、何か実のあることを言うのは難しい。いったん議論をぶちあげても、あとで訂正することになる怖れは非常に大きい。今日における大学制度改革の妙な結果として、一貫した筋をつらぬいて、ひたすらに論文の数を競うことが求められている研究者にとっては、これはまさに“避けるべき鬼門”なのではないでしょうか?‥

しかし、“めしの食い上げ”が怖くないアマチュア研究者ならば、そうした制約無しに議論できるのではないかと思うのですが‥、残念ながら、この方々には別種の制約があるようです。詳しいことは存じませんが、‥どこかでまた新たに“宮沢賢治研究会”が立ち上がるたびに、「これで日本の詩も終りだ‥」うんぬんの呟きが一部の現役詩人の間から聞こえてくることと、それは無関係ではないにちがいありません。。。

それでも、このEブックを書いている間に──書き始めてから研究書を漁るドロナワでお恥しいのですが‥──、『春と修羅(第1集)』について優れた論考を発表されている何人かの研究者の存在を知りえたのは、まことに幸いでありました。そのうち最も主要なお二方が女性だったという事実は、この領域でのジェンダーの開放性を認識させるとともに、逆に問題のありかを一層深く感じさせることになりました。






ここで、私事についても、わずかながら述べさせていただければ、わたくしはかつて東京に就職が決まったとき、これからは仕事のかたわら、大好きな宮沢賢治についても勉強してゆけるのだと大いに意気込みまして、当時、明治学院大学で天澤退二郎先生ほかが指導しておられた宮沢賢治連続市民講座に申し込んだのでありました。

ところが、いかんせん駆け出しの仕事人にとっては土曜も日曜もなく、ついに連続講座には1回も出席できなかったのです(遅刻して途中から出たことが1回だけありましたが、宮沢賢治とポリネシア文学の比較研究というわけのわからない留学生の講義で、正直得るところはありませんでした)。
連続講座のオプションとして、花巻での集中講義と視察、そこでは(当時ご存命だった)宮沢清六氏のご案内もあったとか‥、また、講座終了後、受講生を母体として宮沢賢治研究会?‥学会?‥なるものが発足したとか‥、のちのちの風の便りを耳にした次第でした。

それ以来、宮沢賢治関係の団体には、いつも関心は持ちながら、一度も所属することなく現在に及んでおります。。。
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