ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.3.16


『二荊自叙伝』から、その先を引用しますと:

〔瀬川周蔵いわく──ギトン注〕先日照井真臣乳先生がお悔み≠ノお出でゝ色々話されて居ったが何の事からか内村先生〔内村鑑三──ギトン注〕ということが出て〔…〕親鸞の仏教と基督教と似て居ると言われたから、それではどんなに似て居ますか結局同じ事になるのですかと問うたら同じではない違う点があると申されました、去らば何処が相違の点ですかと反問した時に先生は不図何かに気が付いた様にそれは後日お話することに致しますとて帰られました、(お悔み≠ノ行かれた席でこんな高声の談話は憚ることだとでも思われたのであろう)

 氏
〔瀬川周蔵──ギトン注〕は更に予に対して例の問題を出し仏教と基督教との相違点はというのであった、氏の質問の態度は極めて真剣であった、予は之に対し真剣に答えた、〔…〕巨万の富を擁しても愛する妻を失いて人生に暗黒の襲来を覚え、慰安と希望とを求むる青年の衷情を察して言い尽し難き思いに駆られて別れ去った。」

照井真臣乳(まみち)は、斎藤宗次郎と同信のキリスト者で、内村鑑三門下の独立教会派。花巻で花城小学校の教師を長年勤め、賢治の担任だったこともあります。





その照井に対して、瀬川周蔵は、亡妻のお悔やみもそこそこに、“キリスト教は仏教とどこが違うのか”と真剣に、執拗に問い続け、照井が言葉を濁して帰ってしまうと、次に弔問に来た斎藤に、同じ質問で食い下がったと言うのです。

弔問客に対して、@故人の話題を避け、A執拗にキリスト教について知りたがるという、満ち足りた資産家にも似合わない周蔵の態度が、強く印象に残ったために、斎藤宗次郎は、これを日記と自叙伝に書き残したのだと思われます。

しかし、この異例の態度は、なぜだったのか、私たちも気になります。。。

栗原敦氏の「注」を見ますと:

「少し前、『二月十一日』の項に『不遇の嫁君』として記事がある。結婚後、長い病いがつづいた。斎藤の知らぬ事情もあったことと思われる。〔…〕瀬川家は花巻町有数の資産家で、
〔周蔵は──ギトン注〕貴族院議員ともなる。」(栗原,op.cit.,p.40)

とありますが、「斎藤の知らぬ事情」とは何なのか、やはりこれだけでは分かりません。
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