ゆらぐ蜉蝣文字
□第9章 《えぴ》
24ページ/31ページ
9.3.13
「二月七日〔1924年2月7日──ギトン注〕〔…〕
○農学校に至り
新聞代金を受取って後、今夜の宿直番たる宮沢賢治先生の乞いに応じ暖炉を囲んで遠慮なき物語を続けた。〔…〕
|二青年の対話
| 〔…〕
| 一人は宗教と哲学と科学とに人格を築きつゝある青年
| ───真に末頼母しき青年───
| 〔…〕
| 老青年は勿論労働の身を駈けらして倦まぬ予のこと
| 話は青年苦心中の『詩集』に始まった
| 卓上には既に印刷の成りし百頁近き校正刷や、執筆中の原稿
| は横たえられてある
| 前者を取って静かに予の手に渡した
| 先ず詩趣の奇抜と面白さを感じた」
これは、斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』☆の一部ですが(画像ファイル:求康堂)
この自叙伝は、詳細に記録された日記(未公刊)から抜粋したもので、日記と『自叙伝』を対照して閲覧した栗原敦氏によれば
「『日記』の記述から内容を省略することはあっても、『自叙伝』で事実を曲げたり、美化したり、弁明を加えたりするふしは見うけられない。」(栗原,op.cit.,p.26)
とのことです。すなわち、斎藤の身辺事実の記録としては、極めて信頼性の高い資料と考えられます。
☆(注) 栗原敦「宮沢賢治周辺資料(その4)──『二荊自叙伝』(斉藤宗次郎自叙伝)による──」, 『実践女子大学文学部紀要』,29集,1987.3.,pp.25-49.
そこで、上の引用部分にあるように、この 1924年2月7日の時点では、『心象スケッチ 春と修羅』は印刷中の段階であったことが判明します。「印刷の成りし百頁近き校正刷」とありますが、できあがった《初版本》では、100頁は、【第3章】「小岩井農場」の「パート9」にあたります。つまり、「序詩」から順に印刷して行ったとすれば、2月初めには「小岩井農場」の途中までの段階、【第6章】の「永訣の朝」ほか《トシ挽歌群》はまだ印刷前だったことが分かります。
印刷のペースから考えると、「序詩」はおそらく日付どおりの 1924年1月20日ころ書かれ、【印刷用原稿】の入稿(印刷所に引き渡された)は、1月中だったと推定できます★
★(注) 斎藤宗次郎は、「校正刷」だと思っていますが、はたして、この本の印刷では“ゲラ校正”が行なわれたのかどうか、ギトンは疑問に思っています。むしろ、斎藤が見たのは、すでに刷り上った製本前の束の一部だったのではないかと思います。また、印刷と作者の“差替え・修正”について、次のような推定もできます。すなわち、入沢康夫氏推定(⇒:8.1.7)の《第2段階》で成立した【印刷用原稿】が入稿した後、とりあえず 2月7日頃までは順調に印刷が進み、「小岩井農場」の途中(パート7以前)までが終了した。しかし、この斎藤宗次郎との会見によって詩集の構想を深めた作者は、印刷所に指示して、いったん印刷を止め、【印刷用原稿】を返させて、《第3段階》以後の原稿差替え(いずれも、「小岩井農場・パート9」より後の部分)を始めた。すでに印刷した部分は変えようがなかったが、“第2折り”(「コバルト山地」から、「春光呪咀」タイトルまで)は、目次作成の直前段階に印刷をやり直させて変更を施した。
「| 〔…〕
| 青年は不図思い付いた様に
| 卓上の原稿の半ば頃を開いて予の膝に托す
| 軽き一言はこれであった
| 『これは私の妹の死んだ日を詠んだもの』
| アゝ 死の日を詠んだものか
| 予は心臓の奥の轟きを覚えた
| 何を休めても見ましょうと手に執れば
| あの頃の彼女を想像せる姿
| 〔…〕
| 癒えんものなら癒ゆる様にと酸素を吸入する面影
| そして作者の妹を愛しむ優しき心
| 霙降る朝であったと詠み始むる前に
| 予の心には色々の光景は浮び出でゝ」
引用文中に「酸素を吸入する面影」とあることから、病床のトシは酸素吸入をしていたことが分かります。そうすると、“臨終の日”においても、トシは酸素マスクを付けていたことが考えられるわけで、その状態で会話をしたり、“雨雪”をむさぼるように食べたり‥といったことができたとは思えません。せいぜい、枕元からの問いかけに対して頷く程度だったでしょう。
「永訣の朝」に書かれたトシの発言はフィクション‥、少なくとも、“臨終の日”の発言ではないと考えてきた推定に、またひとつの根拠を付け加えることができると思います。
.