ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.3.8


そういうわけで、@、A、どちらかが正解のようですが‥、あまりきれいな "LOVE" は作れないことが分かります。@は大文字と小文字がまざっていてちぐはぐだし、Aは寸詰まりです。。。 "HELL" と同じ字形を保って "LOVE" にするのは、どだい無理なのです。最初の試行で判明していたように、"HELL" よりも "LOVE" のほうが画数が多いのですから。。。

じっさいにかつてトシが並べて見せた時に作者が「わらつた」とすれば、おそらく、できあがった "LOVE" の字がいびつで、十字架も曲っていたので、思わず笑ってしまったのだと思います。
しかし、いまサハリンの海岸で、作者が、この“パズル”の回想にこめた寓意は、何なのでしょうか?‥パズルの解答の・ちぐはぐな "LOVE" や寸詰まりな "LOVE" を見ていると、“いびつなラヴ”“ちぐはぐな愛”といった文句が浮かんできます。作者は、出航した小舟の「船底の痕」と「台木のくぼみ」によって砂浜に描かれた「曲つた十字架」を見た時に、トシが──女学校のころでしょうか──“パズル”をしてみせた追憶が浮かび、“ちぐはぐな愛”「曲った十字架」といった句を思いついたのだと思います。

トシは、高等女学校の最終学年の時(16歳)に、たいへん不幸な恋愛を体験していたのでした。かんたんに言うと、相手は在学中の女学校の音楽教諭(藤原嘉藤治の前任者)で、嫉妬心からか、生徒の中に地元のイエロー・ジャーナルに言いふらした者がいたらしく、卒業式直前に、『音楽教師と二美人の初恋』なる3日連載のゴシップ記事(『岩手民報』1915年3月20,21,22日付)が掲載されたのでした。トシが、故郷を離れて東京の日本女子大学に進学したのも、このゴシップ記事による地元の醜聞から避難するためだったと推測されるのです。

この鈴木竹松教諭は、1914年3月に東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を卒業して赴任してきた美貌の青年教師であり、7月には東京音楽学校の恩師・弘田竜太郎教授を花巻高女に招いて2日間にわたる“音楽練習会”を催し、二部合唱、ピアノ・ヴァイオリン演奏、ベートヴェン・ピアノ・ソナタのピアノ連弾などを、生徒たちに披露しています☆

☆(注) 山根知子『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』,2003,朝文社,pp.18-19.





ピアノ、ヴァイオリン、ヴォーカルを自在にこなす・この青年教師が、女学生たちの憧憬と渇仰の的になったことは想像に難くありませんが、とりわけ宮澤トシはじめ数人の生徒に対しては個人的な恋愛感情を呼び起こしたようです。トシは『自省録』(1920年2月ころ執筆と推定)において、自分が鈴木に惹かれた原因について:

「『彼女が最初彼に心を惹かれはじめた』と云ふその偶然らしい一事実も〔…〕只彼女に最も明らかにその原因と思はれたのは、『彼女の漸く目醒めはじめた芸術に対するあこがれと渇仰と』であった。彼女の彼に対する好意と親愛との表現は正直すぎるほど正直に無技巧を極めてゐた。」

(トシ『自省録』in:山根,op.cit.,p.349)

と書いています。ここで、トシは、自分を「彼女」と記して、つとめて第三者的に冷静に事実の経緯を述べようとしているのです。
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