ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.3.4


むしろ、ギトンが注目したいのは、これは幼児語(ただし、あくまでも花巻方言における幼児語)だという相馬正一氏の意見★です:

★(注) 相馬正一「宮沢賢治『永訣の朝』考」, in:『郷土作家研究』,青森県郷土作家研究会・日本近代文学会青森県支部,14号,1980.7.,pp.35-49. 相馬正一(1929-2013):太宰治研究の第一人者として著名なほか井伏鱒二、坂口安吾、藤村『夜明け前』等を研究。上越教育大学教授等歴任。上記論文は現在では入手困難となっているので、本節ではその前半の大意を要約することを主眼としました。要約にあたって、著者の論旨を尊重しつつ具体的叙述を変更した箇所が一部あることをお断りいたします。

「今一つ問題なのは、AとBは花巻地方の大人が当時日常語として普通に用いていた方言であるのに対して、@の場合はこの地方における幼児語もしくは幼児語の延長としての方言を用いている点である。
〔相馬氏の符号@ABは、前ページのギトンの符号に同じ。〕〔…〕

 宮沢賢治が『春と修羅』の中で使用している花巻地方の方言は、ローマ字表記をも含めてそんなに多い量ではないが、幼児語のニュアンスを持たせて使用している方言は『あめゆじゆとてちてけんじや』のみである。年配の人ならば現在でも霙(みぞれ)のことを雨雪と呼ぶが、発音は『アメユヂュ・アメユヂ・アメユギ』の三種類で、これは音韻上の発達段階をも示している。」
(p.38)

岩手〜青森の方言について、相馬氏の解説を要約しますと、北奥羽方言では、共通語の ki が chi になり、gi が zi, dji になる傾向がある。また、もっと広い範囲で、清音 ka, ki, ta, chi が濁音 ga, gi, da, dji になる傾向もある。つまり、カ行がタ行で発音されたり、ダ行で発音されたりする。i が u に近くなるような母音変化も、東北全体にあります。

「近年でも『今日』を『チョウ』と発音しているのをよく耳にするが、『雪』を『ユヂュ』、『取ってきて』を『トテチテ』と発音するのも同様のケースである。」
(a.a.O.)

つまり、

 ユキ(雪) → ユギ → ユヂ → ユヂュ

 トッテキテ(取って来て) → トテキテ → トテチテ → トテヂデ

というような系列のバリエーションがあって、系列の右のものほど、個人の“発達段階”としては幼児語に近く、地域的には、北方(青森県方面)もしくは交通の少ない山間地に多い。高等教育を受けた人ほど、左に(つまり共通語に近く)なり、そうでない人ほど右の発音にとどまる傾向もある。そして、同じ地域・年齢でも、個人による相異がかなりあるとのことです。

花巻では、たしかに「あめゆじゅ」は幼児語でもあるけれども、相馬氏が宮沢清六氏から紹介された古老に聞いたところでは、周辺農村には稀に「あめゆじゅ」「とてちて」のような幼児語的な口調の人が現在でもいるということでした:

 清六氏は、
「たまたま宮沢家に来合わせていた高橋さんという花巻生え抜きの古老を紹介して、花巻弁のことならこの人に聞きなさいと言ってくれた。その結果、『あめゆじゆ』と『とてちて』は幼児語と限定するよりも幼児体験語と呼ぶ方が適切で、花巻の町方に住んでいる大人は当時も今も『雨雪、取って来て』を『あめゆじゅとてちて』とは言わない。しかし、このような舌足らずの言い方は今でも農村の一部に残されており、極く稀にではあるが大人でも使う人がいるということが判った。」

☆(注) 相馬正一「鎮魂賦『永訣の朝』の虚実」, 『宮沢賢治』,15号,1998,洋々社,pp.92-109.
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