ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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 【3】《補論》 じゅんさい、あめゆじゅ、HELL→LOVE, etc.



9.3.1


【第6章】の《トシ臨終3部作》は、「記録されたそのとほりの」《心象スケッチ》集として上梓された『春と修羅(第1集)』の中ではめずらしく、美しく研き上げられた詩的形象にみちており、それだけフィクショナルな性格の作品であることは、本文の中で繰り返し論じたとおりです。

ここでは、【58】「永訣の朝」のうち、本文では述べつくさなかった用語・表現について説明を補充し、【68】「オホーツク挽歌」に及びます。そして、最終的には、作者がこれらの“フィクションとしての挽歌”に込めた思いは、亡きトシにだけ向かうものではなく、「みんなのさいはひ」だけを願うものでもなかった‥じつは、トシと、もうひとりの薄幸の死を悼む挽歌であったことを明らかにしたいと思います。

 (1) じゅんさい模様の茶碗 ⇒:6.1.4 「永訣の朝」

. 春と修羅・初版本

08青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
09これらふたつのかけた陶椀に
10おまへがたべるあめゆきをとらうとして
11わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
12このくらいみぞれのなかに飛びだした
13 (あめゆじゆとてちてけんじや) 
(永訣の朝)

この「青い蓴菜のもやうのついた‥ふたつのかけた陶椀」については、読者ならば誰でも、いったいどんな模様なのだろうか?‥いちど見てみたい‥と思うのではないでしょうか。作者自身も、この作品のあとのほうで:

. 春と修羅・初版本

36わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
37みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
38もうけふおまへはわかれてしまふ

と言っているくらいですから、この茶碗のもように、よほど愛着があったようです。

しかし、じっさいにこの「蓴菜のもやう」とは、こういうもの!‥と示してくれた論文も挿絵も、ざんねんながら見当たらないのです。

そもそも“蓴菜模様”というものが、陶器の紋様として存在するのか?‥ギトンは、てっきりそういうものがあるのだと、永いこと思っておりました。。。 ところが、今回、このEブックを書くためにきちんと調べてみると、‥そう呼ばれるような模様は、無いらしいのです。。。

“唐草紋様の陶器”“花文の茶器”といったものは各種あります。しかし、“蓴菜模様”は、いくら調べても出てこない。かえって‥小野隆祥氏などは、↓つぎのように述べています:

「詩の後段で『みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも』とあるから、藍色の呉須の釉薬が、点滴状に流れたありふれた模様にすぎない。それをことさらに『蓴菜』と感じ、表現しないでいられない賢治の深層心理はどういうものであったかが問題である。」


☆(注) 小野隆祥「宮沢賢治作品の心理学的研究」,p.25, in:『啄木と賢治』,10号,1977.10.,みちのく芸術社,pp.4-82.

ギトンは心理学的研究が目的ではないので、作者の深層心理にまでは深入りしませんが、ここで小野氏の論述から判ることは、“蓴菜模様の陶器”という特別なものがあるわけではなく、単に賢治が、家でふだん使っている見慣れたセトモノの模様を、「ことさらに『蓴菜』と感じ」ているにすぎないということです。

ちなみに、小野氏によれば、下根子の宮沢家別宅(トシの療養場所、のちの「羅須地人協会」。現在、「雨ニモマケズ」詩碑のある場所)の南どなり、旧・飯豊村は、沼が多く、ジュンサイの産地だったそうです:

「泉地とか沼沢とかは何であろう。それは宮沢家の別荘がある桜部落の隣村の沼であろう。その飯豊部落が蓴菜の産地であった。」
(小野,op.cit.,p.26)

現在、この周辺の水田開発によって、かつての沼沢地の大部分は埋められたと思われますが、それでも北上川沿いには小さな沼や湿地の残っている場所があります。飯豊には工業団地も造成されていますから、汚染された環境にジュンサイが今でも生えるかどうかは分かりませんが、川沿いの低湿地が段丘の間に深く入り込んでいる地形は、かつての“ジュンサイの産地”を彷彿とさせます:画像ファイル・ジュンサイの産地?
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