ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.2.6


太宰治が『走れメロス』を発表したのは1940年であり、宮沢賢治が死んでから7年後ですから、もちろん賢治は見ていないわけですが、もとになった伝説自体は、1910年に鈴木三重吉が雑誌『赤い鳥』に、 『デイモンとピシアス』という題名で書いていました:⇒五之治昌比呂「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」(PDF)

したがって、盛岡高等農林で、あるいは東京の独逸学協会の夏期講習でドイツ語を習った1916-17年頃には、この伝説は文学関係の人々の間では知られていたと思うのです。ドイツ語の講師が知っていた可能性は、高いのではないでしょうか。

独和辞典に出ていない単語が教科書にあれば、学生から質問されるのは必至ですから、そういう時に、この“ダモンとフィンティアス”の逸話、あるいはシラーの『ダモンとピュティアス』について語れば、学識ある立派な回答になるでしょう。

そういうわけで、賢治と嘉内のどちらかが、あるいは両方が、ドイツ語の時間に、この「マヒワとウグイス」を講読したさいに“ダモンとフィンティアス”を聞いて、死を賭けた友情に感銘し、二人の間で話題にした──ということはありうると思うのです。

「小岩井農場・パート1」の「ドイツ讀本の/ハンス」のカッコ書きから、アンデルセンの『うぐいす』、また『独文読本』の「マヒワとウグイス」に思い当たるのと同時に、さらにその『独文読本』の "Damon" にまつわる“ダモンとフィンティアス”の友情伝説にまで、読者の想起を及ばせようと賢治が考えていたとしても、おかしくはないと思います。

それでは、‥賢治・嘉内が聞いた、あるいはその後、シラーか『赤い鳥』を読むなどして知った伝説のバージョンは、どんな内容なのでしょうか?‥私たちが知っている『走れメロス』と、どこが違うのでしょうか?‥

(1) まず、「メロス」という名前ですが、シラーが、このバラードのバージョンを2つ書いていて、1つは『ダモンとピュティアス』ですが、もう一つのバージョン『人質(Die Bürgschaft)』のほうでは、ピュティアス(フィンティアス)の名前が「メロス(Möros)」になっています。太宰は、この『人質』バージョンのほうを翻訳で読んだので、「メロス」になっているのです。鈴木三重吉バージョンは、その題名の通り 『デイモンとピシアス』です。

(2) 『走れメロス』では、ピタゴラス学派は出てきません。「メロス」は、近郊の村の牧夫、「セリヌンティウス」は、幼なじみで石工という設定です。シラーも、ピタゴラス学派については言及していません。

  鈴木三重吉バージョンでは、二人が属するピタゴラス学派について説明があります。それによると、学派は一種の教団で、自制禁欲を重んじ、《輪廻》の思想を信じたとされます。つまり、仏教に似た宗教教団なのです。これは、賢治と嘉内の関心をそそったことでしょう。

(3) 『走れメロス』は、「メロスは激怒した。」という文から始まります。独裁者ディオニュシオスの虐政を聞いて逆上したメロスが、いきなり独裁者暗殺を図って捕えられたことになっています。シラーも、「メロス」が「町を暴君から救うため」に、暗殺を企てて城に近づく場面から始めます。

  しかし、もともとの伝説バージョンでは、暗殺も謀反もなく、まったくディオニュシオスがピタゴラス学派をいたぶって楽しむためのでっち上げなのです。鈴木バージョンでも、「ピシアス」は「いつもデイオニユシオスに反抗しているように睨まれ」たために逮捕された、とされます。つまり、友情で結ばれた二人は、平和に暮らしていたのに‥という設定です。
  嘉内の“退学処分”が、同人誌《アザリア》の単なる筆禍によるものだとすれば、反抗的ではあるが、謀反を起こしたわけではない、という鈴木バージョンは、かれらの境遇に近いものと言えます。

(4) 『走れメロス』では、メロスが妹の婚礼を終えて戻って来るまでの期限は3日間。通常ならば半日で戻れる距離ですが、途中で川が増水していたり、盗賊に襲われたりしたために、日没ぎりぎりになってしまいます。これらのサスペンス風の設定は、じつは太宰の創案ではなく、シラーがもとにしたヒュギヌスという人のバージョンにあったもので、シラーのバラードも同じです。しかし、もともとの古い伝説バージョンでは、“その日の日没まで”──ほんの数時間の“人質”なのです。もちろん、洪水も盗賊もありません。

  鈴木三重吉はどうかというと‥、「ピシアス」は、舞台のシチリア島からギリシャ本土まで戻って、所有の土地やら家族やら“すべてのことを片付けたい”、と申し出て許可されています。期間の長さは書かれていませんが、おそらく数ヶ月から1年以上になるでしょう‥。その間ずっと、「デイモン」は獄に繋がれて、処刑か?友情の確証か?と、やきもきしていなければなりません‥w。しかし、“賢治と嘉内”には、このくらいの長さのほうが、自分たちに近い境遇と思えたかもしれません‥。
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