ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.4.14
そうすると、「蒼鉛の空」は、どんなイメージでしょう?‥字ヅラを重視すれば、鉛色の暗く蒼(あお)いそらでしょう。しかし、実物を重視すれば、あやしく赤みがかった異様なそらでしょう。どちらなのか、にわかには決められない気がしますが、いずれにしても、険しい雲行きの空です。
. 春と修羅・初版本
48松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
49電燈はよほど熟してゐる
50風がもうこれつきり吹けば
51まさしく吹いて来る劫(カルパ)のはじめの風
「電燈はよほど熟してゐる」──街道に沿って、点々と街路灯が点いているのだと思いますが、さきほどは「九月の宝石」サファイアの青い照明──「青いトマト」──だったのに、いまは、「よほど熟して」赤く、または黄色く☆なっています:画像ファイル・トマト
☆(注) 宮沢賢治に『黄色いトマト』という童話がありますが、トマトは、もともとヨーロッパでは、赤、橙、黄、白、黒、緑など、さまざまな色の品種があるそうです。日本でも、明治〜大正時代は主に観賞用植物だったので、黄色などもあったとか。栗原敦,op.cit.,p.100.
松倉山──「まつ暗な悪魔」──に接近して、まわりの風景も変質してきています。風景の変質は、大きな転換を予感させます。
「劫(カルパ)」は、古代インドの時間の単位で、恐ろしく永い時間のたとえ★
★(注) カルパ(kalpa):仏教経典には、正確な定義を書いたものがありませんが、ヒンズー教によれば、1 kalpa = 43億2000万年。
「まさしく吹いて来る劫(カルパ)のはじめの風」とは、@はるか昔の…宇宙誕生のころ(?)吹いた風、Aいま、新たな数十億年が始まる、の2とおりが考えられると思いますが、Aのほうだと思います。
つまり、作者はいま、まったく新しい時代が始まろうとしているのを、感じているのです。
いま起きているのは、新しい時代に移行するための一時的な混乱と葛藤なのだ、という気持ちが、「もうこれつきり吹けば」に現れています:
この風が通り過ぎれば、「劫(カルパ)のはじめの風」がやってきて、すべてが新しく生まれ変わるのだと。。。
. 春と修羅・初版本
52ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
53電線と恐ろしい玉髄(キヤルセドニ)の雲のきれ
「暁のモテイーフ」は、雲でしょう。いまは暁の時刻ではないのですが、「カルパのはじめの風」の関連で、夜明けの《心象》が「ひときれ」現れます。なお、52行目は、【印刷用原稿】の最初の形では:
「ひときれそらにうかぶウヰリアムテル暁のモティーフ」
でした:音声ファイル:ウィリアム・テル序曲
「暁のモティーフ」は、『ウィリアム・テル序曲』↑の最初の、チェロが奏でる牧歌的でのどかな夜明けの情景です。
しかし、こののどかな音楽は、前後の状況──「まつ暗な悪魔」,「恐ろしい玉髄の雲のきれ」──に合わないので、「ウヰリアムテル」を削ったのだと思います。
「電線」は、叫ぶように唸っています。“電線が鳴っている”とは書いてありませんが、あとのほうの58行目に:
58 (オルゴールをかけろかけろ)
とあるので、【第1章】の「ぬすびと」の「電線のオルゴールを聴く」からの連想で、「電線」が風で激しく唸っているのだと考えられます。
「玉髄」(カルセドニー)は、石英の細かい網の目からできた白色不透明の鉱物:画像ファイル・玉髄 画像ファイル・玉髄
「恐ろしい玉髄の雲」は、ねっとりと薄気味悪いでこぼこの雲片だと思います。
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