ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.4.10


たしかに、賢治作品の中には、人間が《木を伐る》行為に対して、当の木たちが、あるいは森や山の霊的存在が恨んでいるというモチーフを表現したものがあります。

童話『かしはばやしの夜』は有名な例ですが、『春と修羅・第2集』には、↓こういう例があります:

. 「晴天恣意」【下書稿(二)】

「   〔…〕
 あの天末の青らむあたり
 きららに氷と雪とを鎧ふ
 古生山地の峯や尾根
 盆地とあらゆる谷々には
 由緒ある塚や巨きな樹があって
 めいめいにみな鬼神が棲むと伝へられ
 もしも誰かゞその樹を伐り
 あるひは塚を畑にひらき
 乃至はあんまりイリスの花をとりますと
 かういふ無風の青ぞらの下
 見掛けはしづかに盛りあげられた
 あの玉髄の八雲のなかに
 夢幻に人はつれ行かれ
 かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
 見えない多くの手によって
 づぶづぶはりつけにされるのです
    〔…〕」
(#19「晴天恣意」1924.3.25.【下書稿(一)】)

この場合は神木のようですが、しかし、ここには「風景とオルゴール」のような切迫した真剣さは見られません。テーマと作者自身の間に“距離”があると言ってもいいかもしれません。「わたくしがその木をきつたのだから」という“罪の意識”は、ここには見られないのです。

『かしはばやしの夜』についても、それは同様だと思います。所有者に代金を支払って《木を伐》った清作☆には、なんら“罪の意識”も後ろめたい気持ちもありません。

☆(注) 余談ですが、清作のモデルは、宮澤清六さんでしょうね^^

さて、秋枝美保氏は、『春と修羅(第1集)』に現れる「ひのき」を、自我の生命力、《熱した》精神の高揚を象徴するものであるとしていました。再度引用しますと:

「『ひのきのひらめく』は、生命力あふれる季節の謂いである。『春と修羅』においては、『ひのき』のイメージは、詩章『グランド電柱』に顕著に登場する。〔…〕いずれも光と風のあふれる初夏の生物の生き生きとした姿態を描いたスケッチばかりである。『原体剣舞連』にも、檜の髪をうち振るう剣士たちが登場する。『ひのき』は1917(大正6)年の短歌から修羅の心象として登場してきて以来、修羅性を代表するイメージであった。そこには天沢のいう『熱』した精神の高揚があるといえる。」
(秋枝,op.cit.,p.81)

「ひのき」が、《熱い》生命力の象徴だとすれば、《木を伐る》は、そうした生命力を消し去って熱を冷ます行為ではないでしょうか?

【第4章】「グランド電柱」章には、↓つぎのようなスケッチもあります:

. 春と修羅・初版本

01トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです
02車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
03こんな豆ばたけの風のなかで

04 なあに、山火事でござんせう
05 なあに、山火事でござんせう
06 あんまり大きござんすから
07 はてな、向ふの光るあれは雲ですな
08 木きつてゐますな
09 いヽえ、やつぱり山火事でござんせう
    〔…〕    
(電車)

電燈のイメージが登場していますが、それより注目すべきは「山火事」です。「山火事」は、燃える火のイメージ、《熱い》生命力のイメージそのものです。

それに対して、「雲」と《木を伐る》イメージが現れ、しかしそれは「山火事」のイメージによって打ち消されています。

つまり、《熱い》生命力に対抗するイメージとして《木を伐る》行為が現れ、しかし、この【第4章】の段階では、《熱い》生命力のほうが優勢なのです。
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