ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.4.6


こうした旧い裸火照明に対して、電球の白熱光は、
「なにか硬質で実体のない抽象性を感じさせた」。「電球は、〔…〕『灯油ランプが喚起するさまざまな夢想を与えてはくれない〔…〕。われわれは管理された光の時代に生きているのだ。』と、バシュラールは言う。」(シヴェルブシュ,op.cit.,p.184.)

「蝋燭や石油ランプとともに、一家団欒の場も同時に消えてしまった」
(op.cit.,p.186.)

しかし、電球の均質化された無機質な光にアクセントを与え、雰囲気を造り出すために、電灯の笠や、ガラス製の覆い、装飾が発達することになりました:

「均質な光のメディア、つまり均質な光の原料をある特定の光の雰囲気につくり変えることが、電灯の笠に課せられた新しい仕事となったのである。」
(op.cit.,p.188)

「電気の光に具体的な形を与えるには、しかるべき素材と色が必要だった。」
(op.cit.,p.189)

こうして、ランプシェードによる人工的な計算された「光の造形」が、有機燃料による赤みを帯びた自然光のゆらぎにとってかわったのです。

宮沢賢治によって賞賛された「ダアリア複合体」の街路灯も、装飾的な花びら形のランプシェードを持ったものだったと想像され、それは新しい時代の人工的な「光の造形」に属するものでした。

ただ、やはり賢治のユニークな点は、それを、戸外の自然環境との調和の中で見ていることだと思います。

ともかく、電灯の均質で明るい光は、「周囲との何か乾いた新しい関係」、理知的で明瞭な個人対個人の関係を期待させるものでありました。賢治が、この新しい・青く《冷たい》照明を歓迎し、自己の夢を重ねて見た◆のも、そこに注目したからにほかなりません。

◆(注) 「天沢退二郎が〔…〕『春と修羅』前半の詩が『熱』の感覚があるのに対して、最終章『風景とオルゴール』においては、秋の冷気を反映した『冷たい風景』を特徴としていると述べている〔…〕同じく『光』のイメージでありながら、『燃焼』と『電燈の青い照明』とでは熱の感覚に違いがあるのであり、それがそこに表される心象の違いにそのまま重なっていると考えられる。」(秋枝,op.cit.,p.278)

そこにはまた、「有機交流電燈」という言葉に示されるような・自己と他者との有機的な理解・交感を可能にする関係が、想定されていたと言えます☆

☆(注) 「『春と修羅』「序」の自己規定〔…〕『わたくし』は『仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明』とされ、その光は青く、冷たい。が、みんなとの間には、『交流電気』が流れあい、そこに電流がながれたときには、静かに光がともるのである。それは明らかに、ダルケの自我主義的な世界とは一線を画する、新共同体のイメージである。」(秋枝,op.cit.,p.139)

. 春と修羅・初版本

18どんなにこれらのぬれたみちや
19クレオソートを塗つたばかりのらんかんや
20電線も二本にせものの虚無のなかから光つてゐるし
21風景が深く透明にされたかわからない

「クレオソート」は、木材に防腐剤として塗る黒褐色の液★:画像ファイル:クレオソート

★(注) ここでは、クレオソート油に同じ。石油を分留して最後に残った液(コールタール)を蒸留して造られます。賢治のころは、建物の木壁や床、鉄道の枕木、木橋などに盛んに使われていたようですが、発ガン性が判明した現在では、あまり使われなくなりました。

「クレオソートを塗つたばかりのらんかん」が見えてきましたから、作者は《渡り橋》の近くまで来ています:画像ファイル:渡橋、松倉山

「にせものの虚無」:かつて「ナイヒリズム(虚無主義)」を主張していた保阪に対する当てこすりの気持ちが覗いていますが、それと同時に、賢治自身の虚無的な感情も、「ダアリア複合体」の青い光と「深く透明」な風景の中で、穏やかに溶かされてゆくように感じられます。

もっとも、その中から光っている2本の「電線」は、遠方にいる保阪に繋がっているものです。【第1章】【7】「ぬすびと」の「電線のオルゴール」と同様に、風に鳴る電線の音◇は、嘉内に思いを馳せるモチーフの一つなのです。

◇(注) 『冬のスケッチ』では:「瀬川橋と朝日橋の間のどてで、/このあけがた、/ちぎれるばかりに叫んでゐた、/電信ばしら。」(16,4)

この20行目では、まだ電線は鳴っていませんが、このモチーフは、のちほど53行目で、はっきりと現れます。
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