ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.4.5


「賢治の作品における証明器具のモチーフも、そこに描かれた人間関係のあり方と対応すると考えられる。自己と他者との関係のあり方と言い換えても良い。『火皿』と『いろり』が登場する『家長制度』が封建的な人間関係を示すとすれば、『有機交流電燈のひとつの青い照明』は、『みんなと明滅する』のではあるが、そこにあるのは『裸火』とは異なった『青い照明』であり、周囲との何か乾いた新しい関係がイメージされているのであって、『青い照明』には、焔とは異なるニュアンスが感じられる。」


☆(注) 秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,p.130.

シヴェルブシュによれば、
「蝋燭や灯油ランプは」裸火の焔であり、「燃料の燃える様子がはっきり見える」。「暖炉の裸火と同じく、〔…〕見つめる者にさまざまな夢想を喚起させる。事実、裸火はかつてのかまどの火の後身である。」

★(注) ヴォルフガング・シヴェルブシュ,小川さくえ・訳『闇をひらく光 19世紀における照明の歴史』,1988,法政大学出版局,p.168.

白熱灯が普及する以前においては、焔の自然光が、家族の団欒の中心であった。
「夕食後、家族は、ここにある暖炉とあかりを囲むようにして集まった。〔…〕あかりと暖炉のまわりに身を寄せあって座る者を結ぶ心の絆〔…〕」。焔の光は「詩情豊かな趣き」をもち、人々を「柔らかな光のアウラ」で包んだ。(op.cit.,pp.172-173.)





しかし、その一方で、いろりの火や、火皿のゆれる焔だけで照らされた古い家の内部は、あかりの前に主人だけが腰を据え、妻子は台所や馬小屋の暗い隅に息を潜めている封建的な人間関係を遺存させるものでもありました。

宮沢賢治がより強く意識したのは、裸火の焔で照らされた生活の、こちらの面だったのです◇:

◇(注) これは、“西洋と日本の違い”というようなことではないと思います。日本でも、賢治と同時代の芥川龍之介(『アグニの神』など)や夏目漱石(『明暗』など)が、裸火の焔に寄せる感情は、シヴェルブシュの述べる19世紀西洋人のそれと共通なのです。

. 『家長制度』

「火皿(ひざら)は油煙をふりみだし、炉の向ふにはここの主人が、大黒柱を二きれみじかく切って投げたといふふうにどっしりがたりと膝をそろへて座ってゐる。

 その息子らがさっき音なく外の闇から帰ってきた。肩はばひろくけらを着て、汗ですっかり寒天みたいに黒びかりする四匹か五匹の巨きな馬をがらんとくらい厩(うまや)のなかへ引いて入れ、なにかいろいろまじなひみたいなことをしたのち土間でこっそり飯をたべ、そのまゝころころ藁のなかだか草のなかだかうまやのちかくに寝てしまったのだ。
    〔…〕
 火皿が黒い油煙を揚げるその下で、一人の女が何かしきりにこしらへてゐる。酒呑童子に連れて来られて洗濯などをさせられてゐるそんなかたちではたらいてゐる。どうも私の食事の支度をしてゐるらしい。それならさっきもことわったのだ。

 いきなりガタリと音がする。重い陶器の皿などがすべって床にあたったらしい。

 主人がだまって、立ってそっちへあるいて行った。

 三秒ばかりしんとする。

 主人はもとの席へ帰ってどしりと座る。

 どうも女はぶたれたらしい。

 音もさせずに撲ったのだな。その証拠には土間がまるきり死人のやうに寂かだし、主人のめだまは古びた黄金(きん)の銭のやうだし、わたしはまったく身も世もない。」
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