ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.3.2


そして:

. 春と修羅・初版本

09なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから

13風はどうどう空で鳴つてるし

↑これらを見ると、大沢温泉のような谷間ではなく、空のひらけた平野部のように思われます。

したがって、“大沢温泉行”の一部だとすれば、これは、花巻市街地から湯口村あたりまでの間と思われるのです:地図:大沢温泉

なお、このあと、【78】「風景とオルゴール」以下のスケッチは、大沢温泉付近から、豊沢川に沿って、湯口村松原まで徒歩で下って来る途中であり、時間帯は夕方から夜にかけてですから、

「宗教風の恋」の昼間の平野部は、往路のスケッチと思われるのです。

当時、花巻から大沢温泉方面へは、1915年に開業した花巻電気軌道という狭軌の路面電車が走っていました。
しかし、大沢温泉まで開通したのは1923年5月のことで、しかも、電車で行けるのは志戸平温泉まで。志戸平〜大沢温泉間は軌道馬車でした:画像ファイル/地図:花巻電鉄 Wiki: 花巻電気軌道

賢治が1923年9月にここを訪れたのは、鉄道マニアとして、延伸した軌道に乗るのが目的だったようです。

ところで、この大沢温泉は、1918年3月、退学処分を受けた保阪嘉内の心労を癒すために、賢治が嘉内を招待して宿泊した場所でした☆

☆(注) 大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,pp80-82. ちなみに、賢治は嘉内を実家に連れてきたことはなかったようです。(逆に、嘉内は、結婚後に賢治を家族に会わせたことがあったかもしれません。証拠はありませんが、嘉内の次男・庸夫氏の幼時の記憶にあるそうです。)嘉内宛て手紙でも、「私もそちらへ参りたいのですがとても宅へ願ひ兼ねます。御出で下さるならば最ありがたく存じます。然しあなたは私のうちで不愉快な印象しか得られますまい。」([93] 1918年12月初)と書いていて、論旨不明瞭ですが、お互い家族に紹介しにくい風が読みとれます。菅原智恵子氏は、「二人だけがわかちあう至福の共有が内密な友情とな」ったと述べています(op.cit.,p.47)。大沢温泉行きも、二人とも明確な記録は残しておらず、「対酌」などからの推定なのです。



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