ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.2.37
嘉内は、1921年9月末に“甲種勤務演習”を終えて山梨に帰って来たあとは、電力会社の依頼を受けて、発電所建設のための地質調査を行なっていました。
その間、1922年7-9月に2回目の“甲種勤務演習”のため、23年4-7月には陸軍少尉として兵営勤務のために上京しています。
「そして、九月一日、関東大震災が発生した。東京青山から実践女学園に通っていた三妹きのえの安否が気がかりな嘉内は、〔…〕地質調査の拠点にしていた谷村町(現在の都留市)」で、退役軍曹で運送業を営んでいた知人の協力を得、「『関東救援隊』と称して若者を集めて荷馬車で救援物資を東京に運ぶことになった。計一五名ほどの一隊は甲州街道を東に進み、八王子あたりから救援物資の荷を下ろし始めた。」高井戸まで各所で救援物資を配布したあと、嘉内は救援隊と別れて、青山で、きのえの無事を確認し、そのまま在京して、「東京電燈会社と朝日新聞社の印刷局に勤務した。」☆
☆(注) 大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,p.112.
このように、すばやく救援活動に向かった行動的な保阪に対して、賢治の震災の受けとめ方は、さしあたって、もっぱら自己の思想・世界観の転換のきっかけとして捉えていたようです。
これは、もちろん、被災地への距離の違いが大きいでしょうけれども、ふたりの資質の違い──行動的・実践的・社交的な保阪と、思弁的・内向的で思慮深い宮澤──を反映しているように思います。
. 春と修羅・初版本
40つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
41一挺のかなづちを持つて
42南の方へ石灰岩のいい層を
43さがしに行かなければなりません
↑「雲とはんのき」の終結部は、賢治の震災の受けとめ方を、簡潔に言い表していると思います。
「一挺のかなづち」は、もちろん、地質調査用のハンマーです。
すでに、【75】8.1.15 でも述べましたが、この1923年の時点で、「石灰岩のいい層を/さがしに行」く意味は、宮沢賢治にとって2通りあったと思います。
ひとつは、石灰岩や鉱物の採掘を事業として行なうということで、高等農林卒業以来、賢治は幾度か考えて父に進言していましたが、実現可能な計画にまではならなかったようです。
もうひとつは、高等農林の関豊太郎教授が提唱していた・石灰施用による酸性土壌の改良ということで、じつは、小岩井農場では、すでに古くから行なって成果を上げていたのでした。それを、東北地方の一般水田でも行なえば、山間部の耕地化が容易になるだけでなく、凶作飢饉の被害を緩和する効果もあるはずでした。
いずれにせよ、「石灰岩のいい層を/さが」すことは、宝石や“アラジンの魔法のランプ”(【1】「屈折率」参照)を見つけるのとはちがって、それ自体を自分が獲得するためではなく、
加工して社会に供給することによってはじめて、世間の人々をも自分をも利することができる──という違いがあります。
そこに、秋枝氏の言う“転換点”としての「雲とはんのき」の意義があるわけですが‥
ここで、さらに考えてみたいのは、「重荷となつて‥償ひを強ひ」る効果は、じっさいどうだったか?‥ということです。
「部落部落の小組合が
ハムを酵母を紡ぎをつくり
その聯合のあるものが、
山地の稜をひととこ砕き
石灰抹の幾千車を
酸えた野原に撒いたりする
それとてまさしくできてののちは
あらたなわびしい図式なばかり」(「産業組合青年会」#313 1924.10.5.(下書稿(二)))
これは、作品日付よりあとに推敲を重ねているので、農学校教師時代より後の自耕営農時代の思索が反映している可能性があるのですが、
酸性土壌水田への石灰岩抹の施用という課題が、ずっと賢治の頭の中にあったことが分かりますし、しかも、そうした農業技術改良の社会的効果については、“それが実現したところで、また新たなレベルで貧困と不正義が再生産されるだけだ”と、非常に悲観的な見方をしていたことが分かります。
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