ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.27


1919年6月には、散文『ラジュウムの雁』が書かれ、1920年6月には、散文『うろこ雲』が書かれています。これらは未発表作ですが、原稿に清書日付として各年月が記されています。

『ラジュウムの雁』は、5月に一時帰郷した同窓生・阿部孝との花巻での散歩を、散文詩風にまとめたものですが、会話の内容が少し気になります:

「西の山脈が非常に低く見える。その山脈はしづかな家におもはれる。中へ行って座りたい。

 『全體お前さんの借といふのは今どれ位あるんだい。』
 『さあ、どれくらゐになってるかな。高等學校が十圓づつか。いまは十五圓。それ程でもないな。』
 『うん。それ程でもないな。』
    〔…〕
 『うんさうだ。だましてそっと毒を呑ませて女だけ殺したのだ。』

 この邊に天神さんの碑があった。あの石の龜が碑の下から顏を出してゐるやつだ。もう通りこしたかもしれない。

 ふう、すばるがずうっと西に落ちた。ラジュウムの雁、化石させられた燐光の雁。」

「だましてそっと毒を呑ませて女だけ殺した」が、読んでいて気になる部分ですが、親しい友人との冗句的会話の一部でしょう。他人が聴いたら殺人の告白とも受け取られかねない言葉を、あえてそれとなく言ってのける、相手もそれを聞いて軽く受け流す──そんな会話に、スタイリッシュな青年の矜持が感じられます。

「石の亀」は、→この画像のようなのでしょう:画像ファイル:亀趺碑。「燐光」は、賢治にあっては、性的な焔を象徴します。

ひさしぶりに会った同窓生との間で、人には言えない金銭関係、異性関係の苦労を、それとなく話題にしながら、眼に映る風景には、熾きのような抑圧された性の反映を見ています。それらが、まるで秋のように澄みきった春の夕暮に溶け込んで、ふしぎに静逸な情感を作り出しています。

次に、1921年6月ですが、この年1月から8-9月まで、賢治は東京に出奔・滞在中でした。すごい勢いで童話を書きまくっていたピークが、ちょうど6月頃と思われます(新しい原稿用紙〔イーグル印(イ)〕を仕入れていることなどからの推定)。ただ、残念ながら、この時期に書かれたのがどの童話なのかは特定困難です。

原稿に1921年6月の清書日付が書かれているのは、短い散文2篇:『電車』『床屋』ですが、引っかかるような内容とは思えません。

1922年6月中の作品日付(スケッチ取材日付と思われます)のものは、『春と修羅』《初版本》に9篇あります:「林と思想」「霧とマッチ」「芝生」「青い槍の葉」「報告」「風景観察官」「岩手山」「高原」「印象」「高級の霧」。

↑これらは、たしかに、「ひのきのひらめく六月」の初夏の風光を背景にしたスケッチですが、のちのち問題となるようなものがあるとは思えません。ただ‥初夏を迎えた伸びやかな感性の解放それ自体が、世間から咎められる、あるいは、国家主義的な「男らしい」方向から批判される、ということなら、ありえなくはないかもしれません。。。

1923年6月中の作品日付を持つ『春と修羅』収録作は、「風林」と「白い鳥」ですが、収録されなかった【清書稿】が残っている「厨川停車場」も、この月と思われます★

★(注) 「厨川停車場」の【清書稿】には、1922年6月2日の日付が書かれているのですが、現存【清書稿】の末尾には、続けて、「風林」の冒頭部分(こちらも、記入された日付は、1922年6月3日)が書かれています。そのことから、「厨川停車場」の日付は、1923年6月2日の誤記ではないかと疑われるのです。

「厨川停車場」には、↓つぎのような部分があります:厨川停車場

「(あれは有名な社会主義者だよ。
  何回か東京で引っぱられた。)
 髪はきれいに分け、
 まだはたち前なのに、
 三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。

 (えゝと、済みませんがね、
  ほろぼろの朱子のマント、
  あの汽車へ忘れたんですが。)」

「ほろぼろの朱子のマント」は、このスケッチが1923年のものだとすると、賢治自身が着ていた服かもしれません(1923年10月15日付の「過去情炎」に現れます)。つまり、このスケッチの中心人物である「はたち前」の「社会主義者」に、作者は自己を同化させているかもしれません。

いずれにせよ、「社会主義者」を好意的に描いたこのスケッチは、公表すれば作者の思想が疑われることになります(それゆえに、収録を控えたのでしょう)。
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