ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
6ページ/219ページ


8.1.5


「自然の様相をそのまま描写したものではなく、自然をどう受け取るか、が問題とされ、それにはどこか歪められた心理が感じられるのである。」
(恩田逸夫,op.cit.,p.208)

つまり、恩田氏によれば、【第8章】の諸篇は、自然を描いているというよりは、自然に対する考え方を論じているのだ、そこには、賢治の自然に対する2つの見方が、互いに矛盾し、葛藤し合っているのだ、というのです。

これは関心を惹く賢治観なので、少し立ち入って、恩田氏の分析を見ていきますと:

恩田氏は、

「一般に自然に対する立場は、(1)自然科学的自然観、(2)情緒的(芸術的)自然観、(3)倫理的宗教的自然観の三つに大別される。」
(a.a.O.)

としたうえで、宮沢賢治において重要なのは、(2)の芸術的・審美的自然観と、(3)宗教的自然観であり、その2つの中でも、賢治自身は、(3)宗教的自然観のほうに優位を置いていたのだとします:

「彼は自然の中に宗教性を見出すことを第一とし、またこれに劣らず美意識の点で自然に接することに深い愛着を感じているのである。」
(a.a.O.)

そして、「自然の中でも風や光や雲や水などのようなもっとも元素的な自然」「宇宙意志が純一に示されているもの」が、「すきとほつた」「聖(きよ)い」ものとして描かれるときには、それらは美意識の対象であると同時に、宗教性に対して啓示を与えるものでもあるので、2つの自然観は幸福な調和を保つことになる。





しかし、自然から、「暗く重苦しい情欲的な心情」を受け取ったり、「かえって宗教性の妨げとなるような情炎的なものを感じ」たり、「聖(きよ)いこころもち」を求めるあまり「しびれるような生理的に甘美な恍惚感」に浸ったりすることは、宗教性と矛盾するので、そのような場合には、自然の審美的享受は否定されるのだと言います☆

☆(注) op.cit.,pp.209-213.

「宗教性と審美性との両者が、彼の胸中で抵触することなく並び存するのであれば、比較的問題はないのであるが、両者が対立し相剋する状態であれば、その心象は複雑なものとなってくる。」
(p.209)

恩田氏は、【第8章】の【77】「宗教風の恋」に着目し、

この作品の中で、賢治は、これまでの「感性的な傾向」を反省し、自然から、「宗教性の妨げとなるような情炎的なものを感じ」る傾向を否定し、「真実の愛」を人間的な愛として求めるのは誤りであって、「まことの愛」は宗教的な愛としてしかありえないことを悟り、「心の平静を得られるようになった」のだとしています★

★(注) op.cit.,pp.211,213.

. 春と修羅・初版本

「なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
 燃えて暗いなやましいものをつかまへるか
 信仰でしか得られないものを
 なぜ人間の中でしつかり捕へやうとするか」
(宗教風の恋)
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ