ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
58ページ/219ページ


8.2.23


それらの中間にある:

. 春と修羅・初版本

18   (赤紙をはられた火薬車だ
19    あたまの奥ではもうまつ白に爆發してゐる)

は、意識の相克によって脳裡が加熱し、感情のコントロールができなくなる過程を表しています。

「水車」の回転は、どんどん速くなって、気が狂ったように回りだし、頭の奥は破裂して、脳細胞も思考もこなごなに吹き飛んでしまうイメージです。

「赤紙」は、「火薬車」に貼られた危険物注意の張り紙でしょうか?‥そう書いている注釈が多いようですが、「火薬車」なんて、ほんとにあったんでしょうか?火薬だけを積んで走る貨車なんて、ほんとにあったら危険じゃないでしょうか??‥

そこで、別のことを考えてみます:

第2次大戦中の日本では、在郷軍人の召集令状を「赤紙」と呼んでいました。
賢治の時代にも「赤紙」と言ったかどうかは分かりませんが☆、もし当時からそう言っていたとしたら、「赤紙をはられた火薬車」は、1921年、“甲種勤務演習”に応召して上京して来た保阪を指しているでしょう。

☆(注) 「召集」は、在郷軍人を兵営に呼び出すものですから、徴兵検査の後の2年間(海軍は3年間)の入営は、「召集」でも「赤紙」でもありません。在郷軍人(2年間の現役兵役を終えた者)を、戦時の充員その他の理由で動員するのが「召集」です。召集令状が赤い紙に印刷されたのは、1899年(明治32年)10月施行の陸軍召集条例施行細則(陸軍省令第29号)によるもので、日露戦争での召集は、いわゆる「赤紙」によるものであった(⇒Wiki:召集)。したがって、賢治の生きた時代から、戦時の召集(充員召集、臨時召集等)の紙の色は赤でした。なお、1921年の保阪の応召は演習召集でしたから、「赤紙」ではなく「青紙」か「白紙」だったはずです。

そして、「銀の水車」から→危険な「火薬車」へと、相手のイメージが変化するのに応じて、相手に対する作者の態度は、受け入れから揶揄へ、最後には、もう勝手にしろ‥★

★(注) 【印刷用原稿】の最初の形では、19行目と20行目の間に、「同情すると火薬の感情が移入される)」という・( )付きの続きの行があり、→「あんまり同情しすぎると火薬のこゝろも移入される)」に直され、→最後に、この行全体が削除されています。これは、保阪(自身悩んでいた)との絡みの経過を回想していると考えるのが適切です。

散文「図書館幻想」に描かれたような不本意な軋轢の余韻がうかがわれますが‥、ただ、ここで賢治が嘉内を一方的に非難していると読むのは、ただしくないと思います。「火薬車」は、ある意味で、賢治自身がそうだった‥‥と、かつての《熱い》観念の狂騒を、冷めた目で回顧する意識を、いま賢治は持しているはずです。

. ダルゲ草稿群

「ダルゲがこっちをふりむいて
 おゝ ひややかにわらってゐる」
(A「ダルゲ」)

一時は、賢治が保阪に対して、まるで狂信者のようになって、国柱会入会と日蓮宗への改宗を激しい調子で勧めていたことから考えると、
保阪ダルゲの冷笑的な態度は、むしろよく分かるような気がします。

それは、いま狂信からさめた賢治の気持ちでもあったでしょう。

20無細工の銀の水車でもまはすがいい
21カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
22感官のさびしい盈虚のなかで
23貨物車輪の裏の秋の明るさ

前とのつながりからすると、「帽子を折つてかぶるもの」は、保阪を指しているように思います。しかし、たまたま、そういう乗客か、沿線の人が見えたのかもしれません。

「カフカズ風」は、【印刷用原稿】の最初の形では、「ロシア風」でした。「カフカズ風」に変えたのは、ロシア→ソ連→共産主義という当時の一般思潮◇によって誤解されることを恐れて、「ロシア」を避けたためだと思います。

◇(注) 1917年ロシア革命後も赤軍・白軍の内戦が続き、列国の干渉(シベリア出兵)もあって情勢は流動的でしたが、1922年12月にはソビエト連邦が成立し、これによって初めて、“ロシア=ソビエト=共産主義国”という‘一般常識’が成立したと言えます。

「カフカズ風」ではよく分かりませんが、「ロシア風に帽子を折つてかぶる」ならば意味が通じます。防寒用の厚手の毛皮帽子を、折って二重にしてかぶっているロシア人の姿は、おなじみのものです:画像ファイル:ロシア帽
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ