ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
56ページ/219ページ


8.2.21


「アマルガム」は、水銀と他の金属の合金(液体)のこと。流れの水は水銀なので、銀製の水車を回すと、水銀と化合して溶けてしまうのではないか、という連想です。

賢治作品全体を視野に入れて考えてみますと、「水車」、あるいは回転する「車」は、おおくの場合に、星辰の日周運動に呼応して活動する“地上のもの”のイメージを賦与されています:

「カシオピイア、
 もう水仙が咲き出すぞ
 おまへのガラスの水車
 きつきとまはせ。」
(童話『水仙月の四日』)

ギトンは、菅原智恵子氏の研究に学ぶ中で★、こうした賢治作品の基礎的なモチーフは、保阪嘉内との交友の中から生まれているのではないかという見通しを持ってきました。

★(注) 「『春と修羅』の中には二人だけで通じ合うことばや語彙のなんとたくさんあることか。」菅原,op.cit.,pp.160-161.

この・天空の回転運動に呼応する「水車」についても、やはり嘉内との交友の中で生まれたモチーフであることは、『アザリア』第4号に嘉内が載せた散文「打てば響く」↓が根拠になると思います:

「And that inverted Bowl we call the sky,
 whereunder crawling coop't we live and die,
 Life not thy hands to It for help, for it
 Rolls impotently on as Thou or I」

↑これは、ペルシャの詩人オマール・ハイヤームの『ルバイヤート』を英詩人フィッツジェラルドが翻訳した一節ですが、上の嘉内の引用で、3行目の頭の「Life」は原文「Lift」の誤記です。

菅原さんにしたがって、井筒俊隆氏の和訳を示しますと:

空と呼ぶあの逆さ盃に 閉じ込められて
 這いまわりつつ 生き死ぬわれら、
 その空に両手をのべて 助けを求めることの愚かしさ。
 ──むなしく廻るその回転は、われらにおなじ。
〔太字はギトン〕

おそらく、オマール・ハイヤームのもともとの意味は、天に人の似姿の神を求めて崇拝することの愚かしさを批判し、唯一神アッラーにのみ帰依せよ、ということだと思いますが(ギトンは、ルバイヤートよく知りません。違ってたらゴメンナサイ)、嘉内が(そして、西欧と日本の多くの青年が)そこに読み取ったのは、底いなき厭世観でしょう◇

◇(注) 菅原,op.cit.,p.50.

それを、賢治が、仏教的な(インド哲学的な)汎神論的世界に読み替えてしまっているのは、みごとと言うほかはありません。。

‥それはともかく、宮沢賢治の作品中の「水車」、あるいは回転する「車」は、作者にとっては、保阪との交友(いわば文学的営為の出発点)を想起させるものでもあるのだと思います。

そこで、参照したいのは、【第4章】の【45】「天然誘接」です:

. 春と修羅・初版本

「  北[斎]のはんのきの下で
   黄の風車まはるまはる
 いつぽんすぎは天然誘接(よびつぎ)ではありません
 槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
 たうたう幹がくつついて
 險しい天光に立つといふだけです
 鳥も棲んではゐますけれど」

【第8章】の作品には、【第4章】「グランド電柱」に対応する作品を持つものが少なくありません。それは、もしかすると、ちょうど【第8章】のスケッチをしていた作品日付のころに、並行して、【第4章】の推敲・清書を進めていたためかもしれません。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ