ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.5


. ダルゲ草稿群
↑まず、@散文「図書館幻想」ですが、宮沢賢治は、高等農林在学中から農学校教師時代にかけて、十数篇の散文詩風の短篇を書いており、これも、そのひとつです。

用紙は、《10/20(広)イーグル印》原稿用紙で、これは、1920年から1922年まで使われていました☆

☆(注) 入沢康夫『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』,pp.120-125. 使用上限は「丹藤川」の清書日付:1920.5., 下限は「小岩井農場」【清書稿】(1922.6.以後。筆跡は同年半ばまでか?)。

原稿末尾に、「1921.11.─」と記されていて、これは清書日付と見られます(ただし、後日、記憶によって記したもののようです)。

したがって、この散文の清書完了は、おそらく農学校就職直前の1921年11月、遅くとも1922年半ばで、「雲とはんのき」より以前だと考えなければなりません。

ところで、秋枝氏の調査によると、パウル・ダールケ(Paul Wilhelm Dahlke: 1865-1928)について、日本の雑誌等で最初に紹介したのは、1924年2月11日の国柱会機関紙『天業民報』の記事と思われます。
ダールケの著書の日本語訳が出たのは1926年です。つまり、ダールケが日本に紹介されるようになったのは、『春と修羅』の編集発行よりも後なのです★

★(注) 斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』によると、2月7日に宮澤賢治を訪問した際、『春と修羅』はすでに印刷中で、賢治の卓上には、ゲラ刷りと、印刷前の部分の原稿が置いてあったといいます。

それ以前から、東京上野の帝国図書館には、ダールケの "Die Weltanschauung des Buddismus"(仏教の世界観) のドイツ語原書や英訳本がありましたが、賢治が自分でそれらを見つけて精読し、内容を理解したと考えるのは、無理があります。

そういうわけで、《ダルゲ草稿群》の中で、すくなくとも、@の散文は、パウル・ダールケとは無関係だと考えざるを得ないのです。

《ダルゲ草稿群》を通覧しますと、時系列順に@からBまでは、「ダルゲ」と書かれ、Cで「ダルケ」に変っています。そして、Bの草稿末尾には、(おそらく、今後の改稿のためのメモとして)「図書館(ダールケ博士)」と記されています:ダルゲ草稿群

したがって、「ダルゲ」と「ダルケ」は、もともと別で、宮沢賢治は、1926年以後にダールケの著書の日本語訳を読んで、名前の似た「ダルゲ」作品を、ダールケに関する文語詩(C)に改作することを思いついたのではないか。。。 ギトンは、そのように考えます。

それでは、「ダルゲ」とは、どんな意味があるのでしょうか?
独和辞典を引いてみますと:

Dalk -e 《南部/オーストリア方言》(くだらぬ)おしゃべり;単純(不器用)な人,とんま.

Darg -e 《北部方言》(湿地帯の)泥炭.

という2つの語が該当しそうです。。。
両方とも、単数形の発音は「ダルク」。複数形は、「ダルケ」/「ダルゲ」です。

「ダルケ」(とんま)のほうだと考える人が多いようですが(たとえば、斎藤なずなさんのコミック『恋文』)、

ギトンは、もしも↑このどちらかだとしたら、「ダルゲ」(泥炭)のほうだと思います。なぜなら、擬人化された「泥炭」が『春と修羅』に登場するからです。



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