ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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    【76】 雲とはんのき


8.2.1


「雲とはんのき」は、8月31日付☆。この作品は、【75】「不貪慾戒」と【77】「宗教風の恋」の間に挟まれていますが、《初版本》の原稿には、後から追加されたものです。
追加の時期は、【83】「過去情炎」,【84】「自由画検定委員」までの【印刷用原稿】が書かれた後で、【84】を削って【85】「一本木野」【86】「鎔岩流」を加えたのとほぼ同じころと推定されています(《第2段階》@:⇒8.1.8

☆(注) この日は天長節(大正天皇誕生日)で祝日でしたから、作者は汽車に乗って出かけています。なお、大正時代には天長節が年2回あり、じっさいの天皇誕生日である8月31日は夏で暑いので行事等はなく、2ヵ月後の10月に設けた慶祝日に式典をしていました。ですから、8月31日は学校行事もなく休日だったのです。

内容的に言っても、【75】「不貪慾戒」と【77】「宗教風の恋」が、同様の禁欲的方向を向いているのに対して、【76】「雲とはんのき」はそれらとは異なり、じっさいには《9・16連作》を経た後の葛藤に満ちた時期の特徴を示しています。

. 春と修羅・初版本

01雲は羊毛とちぢれ
02黒緑赤楊(はん)のモザイック
03またなかぞらには氷片の雲がうかび
04すすきはきらつと光つて過ぎる

「赤楊」に、「はん」と、ルビが振ってあります。「黒緑赤楊」で、「こくりょくはん」と読みます。

「赤楊(はん)」は、ハンノキ:、カバノキ科の落葉高木です。低地で、湿った場所を好み、浅い沼の中に自生していることもあります。また、田んぼのあぜにも、よく植えられます。

ハンノキは、冬の間に花が咲きます。紐のように垂れた赤っぽい雄花が特徴的です:画像ファイル:ハンノキ

この雄花は前年夏から形成されますので、初秋(この詩は8月31日付)には、すでに花序が見られるはずです:花序の赤、葉の緑、幹の黒色が、モザイクのようになっているのを、「黒緑赤楊のモザイック」と呼んでいるのだと思います。

ハンノキは、沼地や河畔に生えますが、じっさい、このスケッチの後のほうでは、沼や川の風景になります。

あとのほうを見ると判りますが、作者は、汽車に乗って、車窓から風景を見ています。ハンノキの生えている河畔と空が見えます。

場所は推測になりますが、おそらく、花巻から東北本線で南のほうへ‥黒沢尻(現・北上駅)、江刺方面へ向かっているのだと思います。

「すすきはきらつと光つて過ぎる」は、作者の乗った列車が走っているからです。

車窓から見た遠くの空では、「雲は羊毛とちぢれ」(=羊毛のように縮れ)──縮れ雲の後ろに太陽があるか、あるいは、夕方で陽が傾いているために、雲の端がクリーム色の羊毛色に光っているのです。

「またなかぞらには氷片の雲がうかび」

天沢氏が指摘していたように、「氷片の雲」は、《冷たい》詩世界を志向する表現ですが、同様の表現は、じつは、「小岩井農場・パート4」にもありました。
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