ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.29


「僧護」は、マガダ国に帰ってから、シャカに、道中に見たおかしなものについて尋ねたところ、シャカは:

「@は、『迦葉仏』☆の時の僧だ。『臥具を妄に受用せし罪』によって、『孤独地獄』に落ちて、現在まで責め苦を受けている。」

☆(注) 「迦葉仏」(かしょうぶつ:カーシャパ)は、シャカよりも古い太古の時代に地上に現れた6人のブッダのひとり。人の寿命が2万歳だった時代に出現したとされます。

僧侶がベッドを「みだりに受用」した罪──というのは、おそらく、当時のインドの僧は、仏教にしろ、バラモン教にしろ、森の中で瞑想にふけり、夜は樹の下で寝るのがふつうで、ベッドに寝るなどというのは、修行中の僧にはあるまじき贅沢だったのではないでしょうか。

スリランカの南伝仏教経典『スッタニパータ』には、王から、立派なベッドや馬車や着飾った女を与えられたバラモンたちが、長年励んできた禁欲的な修行を忘れてしまい、堕落してしまったという話が出ています(304,305節)

あるいは、この“ベッド”は、いっしょに寝る女性とセットなのかもしれませんねw





次に、Aについて、シャカは:

「『此も迦葉仏の時の出家人なり』。ふたりは、互いに『相愛して、毎夜相抱き臥す』。この罪によって、『孤独地獄』に落ちて、現在まで責め苦を受けている。」

単なる美意識による執着が、畜生道(虫になる)だったり、「軽地獄」だったりしたのに対して、
いわば本格的な(?)地獄で、業火に焼かれているのは、性行為禁止のタブーを破った違反者ということのようです。

このクダリを読んで、(同性愛が罪になるのは坊さん同士の場合──とも読めなくはないのですが)賢治が怖れを感じたのは、まちがえないと思います。。。

しかし、慈雲の一貫した論理には、興味深い点もあるので、もうすこし読んでみますと:

「此等は甚深なる事じや。前の女人面上の蟲と。其様子は殊なれども。その理は一じや。譬ば夢中にをそはれて種々の境界を見(みる)が如く。一息裁断の時。業相に転ぜられて褥形(じょくぎょう)を見る。其時褥形と自心と。一と云べからず。異と云べからず。心の赴く処が生死の在る処じや。業火に焼るゝじや。両出家人は、愛念に因て形を顕はす。形に因て愛念を生ず。此身心が出来れば。業火に焼るゝじや。」
(7〜8頁)

夢の中で、夢魔に襲われて、さまざまな世界を見るのと同じで、息をひきとる時(一息裁断の時)には、その人の「業(ごう)」によって、執着の対象が、このうえなく甘美な映像となって現れてくる。この対象と、自己の心とは、“ひとつのものではないが、別個のものでもない”。そのような自他未分化の状態は、夢の中と同じである。その自他未分化の状態で心が赴いて行くところが、死後の転生先である。したがって、(地獄に属する対象ならば)業火に焼かれることになる。
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