ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.25


. 春と修羅・初版本

 油紙を着てぬれた馬に乘り
 つめたい風景のなか、暗い森のかげや
 ゆるやかな環状削剥の丘、赤い萓の穂のあひだを
 ゆつくりあるくといふこともいヽし

「不貪慾戒」は、8月28日付。短いですが、秋へと向かう雨の山里が、「寂しさを噴く」風景として描かれています。

場所は、花巻の近郊でしょうか。

ちょっと気になるのは、「ぬれた馬に乘り」「暗い森のかげ」‥などの表現。これらは、賢治詩では性的な暗示のあるモチーフだと思います。しかし、この詩では、最後までそうした面はおもてに現れません。

つまり、この詩には“シカト”があるのだと思います。

それは、「不貪慾戒」という題名が示している詩作の“方針”のためだと思います。作者は、単に、季節の変わり目に感じた秋冷の雰囲気をそのまま書いているのではありません。そのような《冷たい》感性で風景を見ようとしているのです。

この詩の後半に:

. 春と修羅・初版本

 慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
 不貧慾戒(ふとんよくかい)のすがたです

と、種明かしが書いてありますが、「不貪慾戒」は、江戸時代の僧・慈雲(1718-1805)が書いた『十善法語』(1775年)の・ひとつの章です。

慈雲は、近畿を中心に活動した真言宗の僧で、戒律を重視したと言われますが、また、シャカの説いた仏教本来の教えを求めてサンスクリット仏典の正確な読解を志し、おそらく日本の僧としては最初にサンスクリット文法を研究した人です。

『十善法語』は、仏教の戒律の集約である“十善戒”☆を、平易に解説したもので、“不貪慾戒”は、“十善戒”の第八戒です。

☆(注) 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪慾(不慳貪)、不瞋恚、不邪見。

慈雲の説く“十善戒”は、戒律といっても厳格なものではなく、たいへん寛容な解釈で、行き過ぎた慾を戒めて中庸・節制を説くものだと言われます。しかし、じっさいに読んでみると、章によっては、ずいぶん禁欲的だと思われる説明もあります。



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