ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
207ページ/219ページ


8.13.7


. 『毒蛾』

「私は今日のひるすぎ、イーハトブ地方への出張から帰ったばかりです。私は文部局の巡回視学官ですから、〔…〕

 さて、今度のイーハトブの旅行中で、私は大へんめづらしいものを見ました。新聞にも盛んに出てゐましたが、あの毒蛾です。あれが実にひどくあの地方に発生したのです。

 殊に烈しかったのは、イーハトブの首都のマリオです。〔…〕」

このように始まる『毒蛾』は、「文部局の巡回視学官」を語り手として、「イーハトブ地方」の「首都マリオ」、「ハームキヤ」などの都市での“毒蛾騒動”の状況を描いています。

“毒蛾騒動”は、実際に1922年7月頃、盛岡市などで毒蛾が発生して刺される被害が続出した事件に取材しているので、「マリオ」「ハームキヤ」は、明らかに、盛岡、花巻を指しています。したがって、「イーハトブ」=岩手も明らかです。「マリオ商学校」(→盛岡市立商業学校),「マリオ競馬会」(→盛岡競馬会?★),「イーハトブ日日新聞」(岩手日日新聞)‥といった当時の実在の団体を指した呼称も登場します。
「ハームキヤ」には、「コワック大学校」という学校もあって、これは稗貫農学校(花巻農学校)です。というのは、当時、稗貫農学校は、前身の農蚕講習所の藁葺き屋根の建物をそのまま使っていたので、高等女学校の生徒などは、“クワッコ大学”などと言ってからかっていたからです。

★(注) wiki:競馬の歴史 (東北地方)に:「1902年に岩手県産馬組合連合会が競馬会を組織し、翌1903年には市内上田に競馬場を建設、同年11月3日・4日に第1回の競馬会を行った。〔…〕以後春秋2季の開催を続け、」とあり、また、岩手県立図書館のレファレンス調査によると、盛岡競馬場開設経緯として、明治36年盛岡市高松2丁目に近代的な競馬場が完成し移転、昭和8年に緑ヶ丘1丁目に移転するまでそこで開催されたとあります。

この『毒蛾』は、岩手県が舞台であり、文中の「イーハトブ」「マリオ」「ハームキヤ」を「岩手」「盛岡」「花巻」に変換しても、何ら異和感を感じないほどです。

つまり、この作品では、「イーハトブ」は、とくに舞台を理想化するという機能を持っていないように思われます。単に、“物語の舞台は架空である”という設定を与えて、現実の社会との間に距離を置くために、地名の“モディファイ”をしているように思われるのです。





“イーハトーブ”のイメージとして、よく引用されるのは、童話集『注文の多い料理店』の広告チラシで:

「イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガママ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴンママ王国の遠い東と考へられる。

 実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在した

 ドリームランドとしての日本岩手県である。

 そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。

 罪や、かなしみでさへそこでは聖くきれいにかゞやいてゐる。」
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ