ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.13.6


. 春と修羅・初版本

01けさはじつにはじめての凛々しい氷霧だつたから
02みんなはまるめろやなにかまで出して歡迎した

そういうわけで、「イーハトブの氷霧」の‘氷霧’も、氷の結晶ではなく、冬の濃霧です。朝の山裾から平地にかけて、濃い霧にとざされ、冬の季節の到来を迎えているのです。おそらく岩手の風物詩にちがいないと思います。

その“りりしさ”は、キラキラした虹のような極地の「氷霧」の輝きではなく、濃密で甘い、真っ白な冬靄のりりしさです。

「まるめろ」は、カリンに似た黄色い果実:画像ファイル:マルメロ

「まるめろ」で「歓迎」するのは、‘氷霧’と「まるめろ」の間に、《野生の思考》(原始感覚)の繋がりがあるからです。堅く締まった果肉、明るい色、甘い香り、──それらはみな、‘氷霧’の「凛々し」さに含まれているものです。

東北ではどうか分かりませんが、北方の外国では、お客さんがあると、皿に山盛りの果実を盛ってテーブルに出すのが、歓迎の慣わしであるようです。ギトンは、真冬のサハリンへ行った時に、個人のお宅で、そういう歓待を受けました。毎日が氷点下20℃、30℃の寒い国では、惜しげなく盛られた大きな果実は、見るだけで心の中が温かくなるものです。

やや理想化されているのは、‘氷霧’を迎える「みんな」のほうです。

じっさいの北国で、厳しい冬の訪れを告げる濃霧を、お供え物か、饗応の果物まで出して歓迎する人は、あまりいないのではないでしょうか?‥

しかし、作者は、自然の季節の移り行きにも、何か神聖なものを感じとっているようです。

さて、その「イーハトブ」ですが、最近では“イーハトーブの景勝地”などという国指定の観光地までできてしまって、すっかりおなじみになってしまいました。ともすると、「イーハトーブ」は、まるで岩手県のシャレた別名のように通用しいます。いや、岩手県どころか、全国どこにでも、「イーハトーブのうんぬん」というお店の1軒や2軒、見つかるくらいです。。。

ギトンは、それはそれでよいのではないかと思います。
しかし、宮沢賢治に思い入れのある人の中には、こうした現象に反発して、“賢治のイーハトーブは、岩手県とは違う!”と強調する向きもあります。

まぁ議論はいろいろしてもらえばいいわけで…w ギトンが関心あるのは、じゃあ賢治サンはどう思ってだんだろってことです。ただ、ここでは《初版本》の頃までに限って考えてみます。

“イーハトーブ”という呼称を初めて使った作品と言われているのは、1923年4月発表の童話『氷河鼠の毛皮』です。
これは、当時の日本軍の“シベリア出兵”とシベリア鉄道をモデルにして、「ベーリング行の最大急行」「に乗ってイーハトヴを発つた人たちが、どんな眼にあったか」という設定で、さまざまな出自の日本人乗客とソビエト赤軍との接触、対立と和解‥というテーマを展開したものです。

ギトンも、この童話に注目して、「イーハトヴ」は、いはて(岩手)+ロシア語の生格語尾 -ov による造語であり、そこに作者の北方志向と、ソビエト赤軍兵士に対する一定の共感を読み取ることができると論じました。

しかし、その後、さらに調べてみますと、『氷河鼠の毛皮』よりも前に“イーハトーブ”を使用していた作品があることが分かりました。それは、1922年後半に執筆されたと思われる☆散文『毒蛾』です:

☆(注) 『毒蛾』の執筆時期の推定上限は、盛岡市の毒蛾発生を報じた1922年7月下旬の新聞記事。下限については、原稿に使用されている用紙《10/20(印)イーグル印》と筆跡から、1922年末頃まで。なお、1923年4月に『氷河鼠の毛皮』とともに新聞掲載された童話『やまなし』は、初期形の草稿が残っており、その筆跡は、《10/20(印)イーグル印》及び『毒蛾』よりも後の筆跡の特徴(「お」の点がつなげて書かれる)を示しています。『新校本全集』第16巻(上)「草稿通観篇」,p.12.
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