ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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サテュロイ(春のしらべ)  






《Ar》 界面の模索行



【75】 不貪慾戒


8.1.1


【第8章】「風景とオルゴール」は、『心象スケッチ 春と修羅』の最後の章です。

この章については、個別の作品を扱ったもの以上に、章全体の意義を論じた研究が少なくありません。それだけ、研究者の関心を集めているとも言えるのですが、しかし:

「じっさい、私も含めて、これまで詩集『春と修羅』を読みかつ論じてきた者らの意識は、およそ挽歌詩群の享受と分析のさきへほとんど向かわなかったと云っていい。

 しかしながら、〔…〕最後にもうひとつ、『風景とオルゴール』なるタイトルを付された十三篇よりなる詩群が置かれている。しばしば(恩田逸夫氏他の若干の論考を除けば)無視されあるいは極度に軽視されるこれら十三篇は、しかし無意味に付加されたものではありえない。」


☆(注) 天沢退二郎『《宮沢賢治》論』,1976,筑摩書房,p.273.

と天沢氏が述べておられるように、この『春と修羅・第1集』の中で、「風景とオルゴール」章は、やはり、日の当たらない翳の部分になってきたとも言えるのです。

つまり、ここの作品の中には、あまり目立ったものがない‥【第1章】の「屈折率」「春と修羅」、【第2章】の「真空溶媒」と「蠕蟲舞手」、【第3章】「小岩井農場」、【第4章】の「原体剣舞連」、あるいは「岩手山」や「林と思想」、‥などのように、数限りなく引用され論じられている有名なものは、【第8章】には見当たらないのです。

そのため、逆に、個別作品よりも、章全体として考察の対象になりやすいと言えるのかもしれません。

【第8章】がしばしば論じられるもうひとつの理由としては、この詩集の他の部分と比べた時に、この章には、きわだった印象、あるいは特徴が見られるのです。
まず、形式の面で言うと:

「最終の詩章『風景とオルゴール』は他の詩章とは違って、ただ一篇を除いては全部、中篇の作品で統一されている。」


つまり、「小岩井農場」や「青森挽歌」のような長編がなく、かといって、【第1章】「春と修羅」や【第4章】「グランド電柱」のような短詩の集まりでもなく、いわば粒ぞろいの中篇が、【第8章】には並んでいるのです。

このことを指摘された恩田逸夫氏★にしたがって、

★(注) 恩田逸夫「詩章『風景とオルゴール』の性格」,pp.189-191,in:同『宮澤賢治論』,2,1981,東京書籍.

   20行以下の作品を  “短編”
   21行〜99行の作品を “中編”
   100行以上の作品を  “長編”

と呼ぶことにしますと:





【第8章】だけでなく、【第5章】以降は、つねに中篇が過半数を占めていることが分かります。
これに対して、【第1章】【第4章】の大半を占めていた短編詩は、【第5章】以後には、【第8章】に1個あるだけです。

この、【第8章】に1個だけある短詩「イーハトブの氷霧」は、入沢康夫氏によると、もともとあった長い詩を、紙面の編集の都合で、極端に短く削ったものです◇。したがって、これは本来の長さではないわけですから、【第5章】以後には短詩は存在しないと言ってもよいかと思います。

◇(注) 入沢康夫『宮沢賢治──プリオシン海岸からの報告』,1991,筑摩書房,pp.108-112.
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