ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
199ページ/219ページ



8.12.13


「新らしい学期になりました岩手県の山も茶色に静にけぶつてゐます 学校へ出たら又愉快に霧山岳だの姫神山だのへ行かうではありませんか」
(1917年4月2日付保阪嘉内宛[33])

「霧山岳」は岩手山の古名です。この手紙は“銀河の誓い”の岩手山行よりも前ですが、ちょうど1年前に寄宿舎の同室で知り合ってから、賢治と嘉内は、岩手山にも、北上山地方面にも、しばしば同行していたことが分かります。

そして、嘉内には、北上山地側の《外山高原》が、とりわけ気に入ったようでした。1921年8月ころの戯曲断片〔蒼冷と純黒〕には、↓つぎのようなセリフがあります:

「蒼冷 いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開かうと思ふ。

純黒 彼処は俺は知ってるよ。目に見えるやうだ。そんならもう明日から君はあの湿(しめ)った腐食土や、みゝづや、鷹やらが友達だ。白樺の薄皮が、隣りの牧夫によって戯むれに剥がれた時、君はその緑色の冷たい靱皮の上に、繃帯をしてやるだらう。あゝ俺は行きたいんだぞ。君と一諸に行きたいんだぞ。

蒼冷 俺達の心は、一諸に出会はう 俺は畑を耕し終へたとき、疲れた眼を挙げて、遠い南の土耳古玉(トウクォイス)の天末(てんまつ)を望まう。その時は、君の心はあの蒼びかりの空間を、まっしぐらに飛んで来て呉れ。

純黒 行くとも。晴れた日ばかりではない。重いニッ[ケ]ルの雲が、あの高原を、氷河の様に削って進む日、俺の心は、早くも雲や沢山の峯やらを越えて、馬鈴薯を撰り分ける、君の処へ飛んで行く。けれども俺は辛いんだ。若し、僕が、君と同ん[な]じ神を戴くならば、同ん[な]じ見えな
〔以下原稿失〕

この断片を、賢治は友人(関徳弥氏)に、「こわしてしまった芝居です。」と言っていますが、嘉内との間であった会話や思いを、いったん戯曲の形にしたものの、思い直すことがあって破棄してしまったのだと思われます。じつは、この断片の書かれた原稿用紙の裏を、関徳弥あて書簡に転用したので、この部分が残ったのです。

1921年夏の賢治・嘉内《訣別》説については、資料的問題があって現在では疑問がもたれていますが、↑この戯曲の破棄を見ると、やはり恋人としては“別れ”と言えるような事態が、あったと思わなければならないかもしれません。

高等農林の自啓寮で上演した保阪嘉内作の戯曲『人間のもだえ』(1916年)では、黒装束・黒顔・黒身の「全知の神ダークネス」が賢治の配役でしたから、上の賢治の戯曲の「純黒」のほうが、どちらかと言えば賢治、「蒼冷」はどちらかと言えば嘉内がモデルと思われます。

じっさいには、故郷・山梨県駒井村での営農に向かっていた嘉内に対して、当時まだ農業を将来の方向としていなかった賢治ですが、強い羨望を持っていたようです。そこで、「蒼冷」は、盛岡周辺で嘉内が最も気に入っていた《外山高原》で営農を開始する;「純黒」は、彼を羨望しつつ訪問再会を誓う、という設定を創り上げたのだと思います。

あるいは、もしかすると、ふたりは、いつかは《外山高原》に住み着いて、ともに農耕・牧畜をして暮らそうと、夢を語り合ったこともあったのかもしれません☆

☆(注) なお、菅原氏は、この部分では、どちらかと言えば「純黒」を嘉内、「蒼冷」を賢治と見て、賢治が語る(じっさいに保阪宛て手紙に書いています)《外山》の春の風景を、嘉内は「目に見えるやうだ。」と言っている、と読み取られており、これも捨てがたい解釈です。菅原千恵子『宮澤賢治の青春』,pp.109-111.
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ