ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.12.11


しかし、宮沢賢治が、じっさいに農学校教師を辞めて自耕生活に入るのは、2年半後の1926年春のことであり、この1923年の時点では、まだ具体的な計画さえ無かったと思われます。農学校を辞職したのは、賢治の活動を支持していた畠山校長の転任(1925年11月)など、外的事情によるところが大きかったと思われ、退職後の生活についても、森荘已池宛て書簡などでは、退職の直前まで東京での就職を予定しているように書いていました。

したがって、この1923年の時点では、上の栗原氏のように、作者の漠然とした予感として理解するのが、一般的と言ってよいと思います。





秋枝美保氏の理解も、方向としてはやはり同様でして:

「『わたくし』は、黒い熔岩流に生えた『白つぽい厚いすぎごけ』を『麺麭』と見、持ってきた『赤い苹果』を食べ、新しい生命を得るのである。死んだとし子が、『アイスクリーム』によって、天に生まれかわるように、『わたくし』は、『青いリンネルの農民シャツ』を身にまとい、農民として再生する自己像を思い描きながら、遥か『北上山地』を臨むのである。

 〔…〕ここに詩人の大きな曲がり角がある。『春と修羅』第一集で、詩人が目指してきたのは、これまで見てきたように、岩手山と岩手山麓であったが、ここでは、詩人の視線は、明らかに『北上山地』へと方角が変わっているのである。」
(秋枝,op.cit.,p.131)

「それは、この『心象スケッチ』の徒歩行に即して言えば、岩手山、岩手山麓を窮境の目標とすることを止め、農民として、ゆるやかな海蝕大地、北上山地へと新しく歩を進めることにしたのである。それは古代の楽園から農村共同体へという方向転換ではなかろうか。」
(op.cit.,p.133-134)

というように、具体的な人生計画というよりは、大ざっぱな方向性、とくに《心象スケッチ》や学校劇☆、童話創作など、じっさいに本人の関心の中心にあった文芸活動の「方向転換」として捉えられています。

☆(注) 創作学校劇について言えば、上演順に、『飢餓陣営(バナナン大将)』→『植物医師』→『種山ヶ原の夜』・『ポランの広場』というように、軍隊(対外進出)や科学から農民・農村組合活動へ、という関心方向の転換が読み取れます。

そこで、さらに進めて言えば、“自分が農民になる”という考え自体、農学校退職以前の作者は、それほど持っていなかったかもしれません★。1923年時点での「青いリンネルの農民シヤツ」とは、むしろ多分に感覚的・概念的な方向性であって、“詩人のスタイル”のようなイメージであったかもしれないと思うのです。

★(注) たしかに、1925年6月25日付の保阪嘉内宛て手紙では、「来春は私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます。」と書いているのですが、この手紙は、この年3月に保阪が結婚して新聞社を退職し、農業経営(地主兼自耕か)を開始した報せに対する返書と思われます。これ以後の保阪宛て書簡が発見されていない(保阪庸夫氏によれば、保阪病没後の混乱で処分されてしまった)ため、この時点で賢治が、じっさいに退職の意思を持っていたのかどうかは不明です。
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