ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.12.8


. 春と修羅・初版本

26その白つぽい厚いすぎごけの
27表面がかさかさに乾いてゐるので
28わたくしはまた麺麭[パン]ともかんがへ
29ちやうどひるの食事をもたないとこから
30ひじやうな饗應ともかんずるのだが
31(なぜならたべものといふものは
32 それをみてよろこぶもので
33 それからあとはたべるものだから)
34ここらでそんなかんがへは
35あんまり濳越かもしれない

「濳越」は‘僭越’の誤字です。

ともかく、28-37行目の“行間”で作者が言おうとしていることは、“再生した生命”の世界を見ようとして来た「私(わたし)」を迎えたのは、“死の世界”──カラカラに干からびたコケとも思えないコケ(じつは地衣類)だけが、かろうじて岩にしがみついて生きている“死の世界”──だった、ということです。

《熱い》時代のマグマは、もう完全に息の根を止められて固結していますが、新しい生命の再生までには、まだ時間がかかるのです。。。

そのような現状を確認しながら、作者は、明示の発言としては別の意識が出てきて、
その「かさかさに乾い」た「すぎごけ」を‥、まるでパンのようだ、と言い、「たべもの」は「みてよろこぶもの」だ、そして「たべるもの」だ、「ひじやうな饗應ともかんずる」、などと言って楽しんでいます。

この意識は、客観的観察者のそれではなく、むしろ“生活詩人”の趣きがあります。とにかく何か食べられるものがあれば、それだけで喜ばしい。きょう一日を生きられることが、もっとも大きな喜びなのだ。。。

この「ひじやうな饗應ともかんずる」を、「ひるの食事を持たないので、それを見るだけでごちそうされた気になる」(小沢,op.cit.,p.53)といった常識的な見方で割り切らないほうがよいように思います。むしろ、ここには、‥ともかくも、新たに芽生えた《生命》として、この「かさかさ」の地衣類を祝福し、心から楽しんでその「饗應」を受けようとする気持ちが現れていると思います。

ここでちょっと参照したいのは、厳しい兵役訓練で疲労困憊していた弟の清六氏のところへ賢治が慰問に訪ねて来た時のこと(1925年9月中旬)を、清六氏が書いている「曠野の饗宴」の一節です:

「それから私共は松の樹が黒く影をつくっている衛兵所の近くの芝生で、酒保で売っているピーナッツやぱんをたべ、贋物の安葡萄酒をのみながら夕方まで話し合ったのであった。──兄がこんな辺鄙なところまで突然来てくれたのは、私の手紙が中々届かなかったので、病気で参っているのではないかと思ってわざわざ学校を休んで会いに来てくれたのであった。

 思ったより私が元気で、まっ黒になっているのでたいへん喜んでくれたが、兄もまたこの時は大変な意気込みで、最近は童話も詩もどんどん書いているし、学校の方など色々面白いことも沢山あるし、これからやらなければならないことも山ほどあるから、君も帰って来たら大いにやろうという風なことを談したのであった。

 全くのところ、あの晴天の下での数刻の邂逅は、簡素ではあったがほんとうの饗宴というのに相応しいものだったと思うのである。兄が帰ってから、やがて手紙をくれたがその一部には、

  先頃は走ってやっと汽車に間に合ひました。あの夕方の黒松の生えた営庭の草原で、ほかの面会人たちが重箱を開いて笑ったりするのを楽しく眺め、われわれもうすく濁った赤酒を呑み、柔らかな風を味ひうるんだ雲を見ながら何となく談してゐた寂かな愉悦はいまだに頭から離れません。
〔書簡番号[212〕──ギトン注〕

と書かれている。」


☆(注) 宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,pp.30-31.

作者が、《焼走り溶岩流》で、「かさかさ」の地衣類から受けた「饗応」は、ここから推測できるように思うのです。それは、ひろびろとした山腹の太陽の下で★、しっとりした雰囲気の中にも、これからの“再生”に向けての意気込みを溢れるほど感じさせてくれるような気分を、想像することができます。

★(注) 「鎔岩流」の冒頭には「喪神のしろいかがみが‥」とあるために、当日の空は雲で覆われていたとする論者もいますが、ギトンは、むしろこの詩から、きれいに澄みわたった青空を想像するのです。「喪神の白い鏡」という表現は、必ずしも雲に隠された太陽ではなくとも、傾いて光が鈍くなった太陽に使われることは、すでに短歌の用例で見たとおりです。したがって、この日はおそらく、空の一部に薄雲がかかる程度で、おおむね晴れた天気だったと思うのです。なお、「一本木野」から「鎔岩流」まで、作者のこの日の“曠原散策”が単独であったと考える必要は、必ずしもないと思います。たとえば、【第1章】の「雲の信号」「風景」、【第8章】の「過去情炎」など、あきらかに生徒たちとの実習作業であるのに、スケッチは、作者ひとりのこととして書かれています。
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