ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.11.7


「三十年ばかり前のこと、〔…〕じいさんはいつもの場所に陣どって、春景色を眺めながら釣りをしていた……。」

ちょうど通りかかった郵便馬車が、堤の上で立ち止まると、馬車の中で居眠りしていた郵便配達員を御者が一撃で殺し、郵便袋を、柳の木のうろに隠し、自分のこめかみを傷つけて強盗に襲われたふうを装うと、

『助けてくれえ!人殺し!』

と叫んで、アルヒープ爺さんには気づかずに逃げて行った。。。

六日後に捜査官の一行がやってきたが、水車小屋の見取図をとったり、川の深さを測ったり、意味不明のことをしただけで、柳のうろには気づかず、アルヒープ爺さんには声もかけずに帰って行った。

「アルヒープはそのあいだずっと水車のかげにすわったまま、震えながら郵便袋を眺めていた。そのなかに彼は、五つも封印をおした封筒をいくつも見つけた。昼も夜も彼はこの封印を見つめながら物思いにふけったが、柳ばあさんのほうは昼間は黙りこくっていながら、夜ともなると泣くのだった。〔…〕一週間してアルヒープは、とうとう郵便袋を持って町へ出かけて行った。」

町で「役所はどこか?」と尋ねたアルヒープが指された建物は、財務局だった。
玄関の間にいた「ぴかぴか光るボタンの旦那」に、目撃した出来事を語ると、その役人は郵便袋をアルヒープから取り上げて、役所の奥にひっこんだ。10分ばかりして、役人は、中身の軽くなった郵便袋を返しながら、

『おまえは、なあ、来るところをまちがえたんだ。〔…〕わかったな!警察署へ行くんだぞ』

アルヒープは、そこを出て、警察署を教えてもらって行くと、そこでも、入口の近くにいた書記たちに、目撃した事実を語って聞かせた。

「彼らは老人の手から袋をひったくると、彼をどなりつけて、上司を呼びにやった。ふとった口ひげの男がやってきた。」

しかし、郵便袋の中にあった封印付きの現金封筒は、全部なくなっていたようだった。

『からっぽじゃないか!だがまあ、あのじじいは帰っていいと言ってやれ!』

という声が、つぎの間から聞こえてきた。

アルヒープは、水車小屋に帰って、また毎日釣りをしていたが、郵便強盗の件は、それっきり音沙汰もなかった。
ところが、半年以上たってから、れいの御者が水車小屋にやってきた。

「晩秋のことだった。老人はあいかわらずすわりこんで釣り糸を垂れていた。その顔は、葉の黄ばんだ柳の木と同じように暗かった。彼は秋が好きではなかったのだ。そしてその顔は、あの御者の姿を間近に見つけたときに、ますます暗いものになった。御者は彼のいるのにも気づかずに、柳の木に近づいて、木のうろに片手を突っこんだ。〔…〕

 『あれはどこなんだ』と、彼はアルヒープに問いかけた。」

アルヒープは最初黙っていたが、「やがてこの男が憐れになってき」て、役所に届けたことを話してしまった。御者はアルヒープをさんざん殴りつけたが、そのまま「水車小屋の近くにアルヒープといっしょに住みつくようになった。」

御者は、夜になると土手の上を歩き回った。春になっても同じだった。

「『馬鹿なやつめ!うろつきまわるのもいいかげんにしろ!』と、老人は郵便配達
〔の亡霊──ギトン注〕のほうを横目で見ながら、御者に言った。『行っちまえ』

 郵便配達
〔の亡霊──ギトン注〕もまったく同じことを言った……。柳の木も同じことをささやいた……。

 『ところが駄目なんだ!』と御者が言う。『行ってしまいたいのは山々だが、足が痛いんだ、心が痛むんだ!』」

そこで、アルヒープ老人は、御者を町の警察署へ連れて行った。御者は、口ひげの男の前にひざまづいて、犯行を打ち明けた。ところが、口ひげの「主任」は、

『酔っぱらってるのか。監獄にぶちこまれたいのか。どいつもこいつも気がふれたんだ、汚らわしいやつらめ!事件をもつれさせるだけだぞ……。犯人はあがらなかったんだよ──さあ、もうたくさんだ!これ以上何か用があるってのか。とっとと失せやがれ!』

こうして、水車小屋へ戻ってきた御者は、川へ身を投げて死んだ。

「いまでは、土手の上に、じいさんと柳ばあさんは二つの亡霊を見ている……。彼らがささやきかわしているのは、この亡霊たちとではないだろうか。」
(『柳』終り)
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