ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.11.6


「荷馬車隊は、村をはずれた川岸に陣どった。陽はきのうと変わらず焼けつくようで、空気はそよとも動かず、気が滅入るほどだった。岸辺には柳の木が何本か立っていたが、影は地面にではなくて、むなしく水面に落ちていた。〔…〕

 ドゥイモフとキリューハは、スチョープカにならって、すばやく裸になると、次々に、高笑いし喜びにわくわくしながら、水へ飛びこんだ。〔…〕

 エゴールシカも裸になった。だが岸辺を下りて行かずに、勢いをつけて走って、二メートルほどの高さのところから飛んだ。空中に弧をえがいて水に飛びこむと、そのまま深く潜ってみたが、川底までは届かなかった。」
(『曠野』五)

エゴールシカ少年は、年上の粗野な少年たち、馬車曳きの若者たちにまじって水浴を始めますが、やがて、ひとりの若者の驚くべき行動に出くわします:

「〔…〕ワーシャもバケツを覗きこんだ。その目はきらきらし始め、その顔は前に狐を見ていたときのように、やさしくなった。そしてバケツから何かを掴み出して、口へ持ってくるなり、かぶりついた。噛み切る音が聞こえた。

     〔…〕
 『こいつは魳[かます]じゃねえ、鎌柄(かまつか)さ』と、ワーシャは口を動かしながら、澄まして言った。

 彼は口から魚の尻尾を引き出して、いとおしむように眺めてから、また口へ押しこんだ。噛みながら、葉を鳴らしているのを見ると、エゴールシカは目の前にいるのが人間ではないような気がした。ワーシャの膨れた顎、どんよりした目、並みはずれた鋭い視力、頬張った魚の尻尾、魳を噛んでいるやさしいようす、こういったものが彼を動物じみたものにしていた。」
(『曠野』五)





つぎに、短篇小説『柳』☆ですが、まず冒頭から:

☆(注) 以下、引用は:松下裕・訳『チェーホフ全集』,第1巻,1988,筑摩書房,pp.34-40.による。

「あなたがたのなかで、Б・Т間の街道を通った人がありますか。

 通ったことのある人なら、もちろん、コジャーフカ川のほとりにぽつんと立っているアンドレーエフの水車小屋を覚えていることだろう。小屋はちっぽけで、臼がふたつしかない……。百年以上もたっていて、もうずいぶん動いていないので、〔…〕年取って大きく枝をひろげた柳の木に寄りかかっていなかったら、とうの昔に倒れていたにちがいない。柳の木はうっそうとして、ふたりがかりでも抱えきれぬくらいだ。つやつやした葉は、屋根や堤(つつみ)の上に垂れている。下枝は流れにつかったり、地上にひろがったりしている。この木も年を取っていて、腰がまがってしまっている。その猫背の幹は大きな黒い空洞(うろ)で醜くなっている。〔…〕

 柳の木は、このもうひとりのよぼよぼの老人──アルヒープじいさんをも支えている。彼は根もとにすわりこんで、一日じゅう魚を釣っているのだ。彼は柳の木同様年取っていて、猫背で、歯の抜けたその口は木のうろそっくりだ。日のあるかぎり魚を釣り、日が落ちると木の根かたで思いにふけっている。ふたりとも──柳ばあさんとアルヒープじいさんとは、昼となく夜となくささやきかわしている……。ふたりは生涯にさまざまなものを見聞きしてきた。彼らの話を聞いてごらん……。」

こうして、柳の老木とアルヒープ爺さんが、この水車小屋の傍らで目撃した出来事が語られるわけですが‥、それは、郵便馬車を襲った強盗殺人なのです。。。
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