ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.10.3
. 自由画検定委員
01どうだここはカムチャッカだな
02家の柱ものきもみんなピンクに染めてある
03渡り鳥はごみのやうにそらに舞ひあがるし
04電線はごく大たんにとほってゐる
05ひわいろの山をかけあるく子どもらよ
06緑青の松も丘にはせる
子どもの自由画を見ているということなら、「ごみのやうに‥舞ひあがる」「ごく大たんにとほってゐる」といった賢治流の表現も、気兼ねなくそのまま受け取って想像を膨らませることができます‥
いや‥私たちが実景をスケッチしたものとして読んでいるほかのスケッチも、もっと気兼ねなく読んでよかったのかもしれません。
「火薬と紙幣」で、スズメの群れを、「また一つまみ‥ばら撒かれ」と言っていたのとか、「ぬすびと」「風景とオルゴール」の“電線”に向けられた愛着とか、‥もっと作者に近づいた読み方ができるような気がしてきます。。。
草下さんの言ってた《原始感覚》について、ギトンも思いあたったことがあるんですが…、
親戚の小学生の子を近郊の山へ連れて行った時のこと、下りて駅へ歩いて行く途中で‥もう小学生のほうはへとへとに疲れ切ってるんですね。ギトンは、1日歩いたくらいでは平気なんですけどw‥、それで、国道の端を歩いてると、その子が、
「山の木が、どうして横に生えてるんだ?!」
て言うんですよ(笑)。斜面を下りて来た時にはまっすぐ上に生えていたのに、いま横倒しに水平に生えてるって言うんですねw
たしかに、周りを見ないでそこだけ見れば、少し傾いて見えるかもしれませんけど、それは斜面を垂直な壁とみなす眼の錯覚で、横倒しってことはないですよね。なので、
「疲れて眼が変になったんじゃないのか?車に気をつけろよ」
て言ったんですけどw
しかし、あとで考えてみると:‥眼とか、人間の五感はみな、外界から受け取ったままではなくて、もともとから人間の脳にある“前概念”の枠組みで相当に成型したものを、私たちは“感じて”いますからね。大人になるほど、その枠組みは強乎で、成型が大部分を占めた像しか私たちには見えないですね。。。それが“見たまま”、“外界そのもの”だと私たちは思っているわけです。
山の木が横倒しに生えているという視覚は、そう考えてみると、とても貴重なものかもしれないです。それを“錯覚”だと言うのはたやすいですけど、では、大人の眼が見ている像は、それとどう違うのか?‥単に、‘お手本’に、より当てはまってるから“錯覚”とは呼ばないだけじゃないのか?
「ひわいろ(鶸色)」は、鶸の羽から名づけられた色で、黄色の強い明るい黄緑。飲むお茶の色と言えば分かりやすい:画像ファイル:ひわいろ
舞い上がる「渡り鳥」、「大たん」に通る「電線」、「ひわいろの山」、その上を馳せる松の切れぎれの葉枝、‥あらゆる景物が、「かけあるく子どもら」とともに踊っています。
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