ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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  【84】 自由画検定委員



8.10.1


「自由画検定委員」は、《初版本》には収録されていませんが、【印刷用原稿】として清書されたものが発見されました。原稿についていた頁番号から、もともとは「過去情炎」の次にあった作品で、
その後の【印刷用原稿】の編成替えで、「一本木野」、「鎔岩流」、‥‥に差し替えられてボツになったものだということが判明:⇒8.1.7 【印刷用原稿】の編成替え

発見された原稿は1枚だけで、この作品自体は2枚目以降に続いていたと見られますから、現存の「自由画検定委員」は、冒頭だけの断片です:自由画検定委員

原稿には日付もないので☆、「過去情炎」の日付“10月15日”より以後‥ということしか分かりません。

☆(注) 《初版本》も【印刷用原稿】も、作品日付は「目次」にだけ書いてあって、本文に日付はありません。

もっとも、日付(スケッチの題材の起きた時期)を推測する手がかりはあります。

「自由画検定委員」という題名は変っていますが、この1923年11月11日から15日まで、花巻の“花城小学校”で、《県下小学校児童自由画展覧会》が開催されているのです。

当時の『岩手日報』の記事によりますと:

「花城小学校主催の県下小学校児童自由画展覧会は陳列数四百数十点で、とらわれない筆致に観衆の足を止めさせてゐる。〔…〕この地に第一回の自由画と洋画の展覧会をひらいたのは大正五年頃で、其後機会ある度に開催して今日では盛岡につぐ盛んな所である。〔…〕其後同好の青年達が『雑草社』を設けて研究を積んでゐる。此の会の人たちによつて毎年発表される展覧会の度には必ず児童の自由画をも加へてゐる。本年は是非全国の児童自由画展覧会を催したいと言ふので花城校長千葉氏や〔…〕『雑草社』の同人によつて目論まられてゐたが京浜の震災等もあつたので是非なく中止されたと言はれてゐる。が県下の各小学校とも既に自由画も採用してゐるので見栄のするもの計りで会場が飾られてゐる」


★(注) 栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.101-104.

↑上のファイルで「自由画検定委員」を見ますと、たしかに、6行程度の連が並んでいて、それぞれが独立した空想的な風景を描いているようです。小学生の自由画を見て、1枚の絵に1連をあてて《心象スケッチ》にしたと考えれば、よく分かります。

このような数行程度の連をつなげて一篇の詩を構成する方法は、ソネットをはじめ近代詩ではむしろ一般的と思われますが、宮沢賢治には、非常に例が少ないのです。
展覧会の絵を見た印象を次々に詩作品にして行ったのであれば、その点の謎も解けるわけです。

ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』の作詩版と思えばよいのではないでしょうか。

もっとも、賢治が、観客として《自由画展覧会》に展示された絵を見て、この詩を書いたのか、それとも、「検定委員」か選考委員として、事前の出品作選考の段階で見たのかは、分かりません。
前者ならば、この詩の‘日付’は11月中旬、後者ならば10月後半〜11月10日頃の間になります。
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