ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.9.9
しかも、「序詩」においては、この作者の認識それ自体も“絶対真理”ではなく、「第四次延長のなかで主張」される相対的な命題にすぎないとされます:
量子力学の創始者シュレディンガーと、“統計的観測”の方法を提唱したエクスナーによれば、「『探究される秩序の姿は、観測されるものに応じて異なる』ということであり、〔…〕『序』における賢治の〔…〕主張は、この経験論的な立場にあてはまる〔…〕。『春と修羅』という一回限りの心象スケッチにおいて何らかの因果=法則を発見することは困難であるが、それを第四次延長〔≒時空──ギトン注〕の中に置いたとき、類似の心象の繰り返しが他の精神現象の中に発見されるかもしれないのであり、そこに精神史における何らかの法則性が指摘できるかもしれない、この心象スケッチはそういう『因果』の発見のために『第四次延長』の中に開かれているということではなかろうか。」
(秋枝美保,『宮沢賢治の文学と思想』,pp.403-404)
とはいえ、この「過去情炎」において:
. 春と修羅・初版本
31もう水いろの過去になつてゐる
という作者の言葉には、すべてが理論的に解決されてもなお残る感情の余韻が感じられます。作者は、「水いろ」の水の層を透して「過去」を凝視しているのです。
「古びた水いろの薄明穹のなかに
巨きな鼠いろの葉牡丹ののびたつころに
パラスもきらきらひかり
町は二層の水のなか
〔…〕
むかしわたくしはこの学校のなかったとき
その森の下の神主の子で
大学を終へたばかりの友だちと
春のいまごろこゝをあるいて居りました
〔…〕
わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
その建物の舎監にならうと云ひました
そしてまもなくこの学校がたち
わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
舎監に任命されました
恋人が雪の夜何べんも
黒いマントをかついで男のふうをして
わたくしをたづねてまゐりました
そしてもう何もかもすぎてしまったのです」
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