ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.9.7
しかし、この「過去情炎」では、作者の姿勢に大きな変化が見られると思います。
何もかもが「たよりなく」「あてにならない」《現象の世界》であればこそ、さまざまな美しい形象が目まぐるしく生々するのです。
また、そのような《現象の世界》で、個々のものは、発生と消滅を繰り返しながら“水滴”のように互いに他を映し出すのです。ここから、
. 春と修羅・初版本
「(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら」
「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
〔…〕
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)」
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません」
…という「序詩」の思想☆までは、あと一歩ではないでしょうか?
☆(注) 「『春と修羅』「序」の主張は、自我主義、素朴な客観主義、絶対主義的観念論の相対化にあると言える。」(秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,p.389)「常に『わたくしといふ現象』は、周囲との間の関係のシステムであり、開放系である。しかも、その関係は、周囲の『みんな』との関係であり、『宇宙の大生命』といった観念的なものとの関係ではない。」(op.cit.,p.382)
“華厳”思想の“インドラの網”(因陀羅網)の形象を借りながら、作者はそれを、流転する《現象》そのものの性質として、相対的に理解しているのです。つまり、「序詩」の最後に↓つぎのように書かれているとおりです:
. 春と修羅・初版本
「すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます」.