ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.9.5
. 春と修羅・初版本
13えりおりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
14企らむやうに肩をはりながら
15そつちをぬすみみてゐれば
16ひじやうな悪漢(わるもの)にもみえやうが
17わたくしはゆるされるとおもふ
15行目の「そっち」は、梨の枝に付いた「雫」の方向です。作者は、ときどき「雫」のほうを振り向いて、円い形の大きな「雫」が落ちないで付いているかどうか、ニセアカシアの掘り取り作業をしている自分たちを映しているかどうか(もちろん、映っているのが見えるわけではありませんが‥)たしかめているのです。
「企らむやうに肩をはりながら」「ひじやうな悪漢(わるもの)にもみえやうが」──幼い生命を掘り取って除去してしまおうとしている自分の行為に対して、作者の自意識が現れています。
こんなつまらないことで、いちいち、雑木がかわいそうだとか気にするのだろうか‥と思うかもしれませんが、事実、賢治には、動物や樹木の生命や感情が、いつも気になって休まらない意識があったのだと思います。
たとえば、
「白樺の
かゞやく幹を剥ぎしかば
みどりの傷はうるほひ出でぬ。」(歌稿B #322)
「白樺の薄皮が、隣りの牧夫によって戯むれに剥がれた時、君はその緑色の冷たい靭皮の上に、繃帯をしてやるだらう。」(『蒼冷と純黒』)
樹皮のはがれた白樺の幹は、賢治にとっては、皮膚をはがされた人の二の腕のように感じられたのです。
『心象スケッチ 春と修羅』【第1章】の【15】「風景」には:
「また風が来てくさを吹けば
截られたたらの木もふるふ」
とありました。
「わたくしはゆるされるとおもふ」──森羅万象を映し出す“鏡”によって「ゆるされる」ことを、作者は願っています。
「風景とオルゴール」から「昴」までの詩篇では、「わたくしがその木をきったのだから」「どうしてどうして松倉山の木は/ひどくひどく風にあらびてゐるのだ」「木をきったものは/どうしても‥肩身がせまい」と、作者は、自分が変ってゆくこと──思想を変えてゆくことにたいする呵責に、さいなまれていたのでしたが、
いま、それを、万象を映し出す梨の樹の「雫」に「ゆるされる」ことによって、遂行しようとしているのです。。。
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