ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.9.4


. 春と修羅・初版本

09わたくしがここを環に堀つてしまふあひだ
10その雫が落ちないことをねがふ
11なぜならいまこのちいさなアカシヤをとつたあとで
12わたくしは鄭重にかがんでそれに唇をあてる

11行目の「このちいさなアカシヤ」から、作者が掘り取ろうとしているニセアカシアは、幼木らしいことが分かります。街路樹のような成木ではありません。たまたま近くに植樹された樹から種子が落ちて生えてしまったのでしょう。

9行目の「ここ」は、ニセアカシアの根の周りです。根の周りを環状に掘って、できるだけ枝根を残さないように掘り取ろうとしています。生命力の強いハリエンジュは、根が残ると、そこから再生して、はびこってしまうからです。

「その雫」は、梨の「短果枝」についた水滴です。作者は、水滴が森羅万象を映し出すのといっしょに、アカシアを掘り取る自分の姿を映していてほしいと願うのです。《木を伐る》作業をやり遂げることによって、古い《熱した》精神に別れを告げ、新しい移住者「ピユリタン」の生命として再生することを願っているからです。再生する自分を誰かが見ていてほしい──そういう願いです。

そして、梨の“水滴”の鏡に我が身を映しながら、作者は、掘り取られた幼木に、「鄭重に」ひざまづき、「唇をあて」てキスをします。
12行目の「それ」は、ニセアカシアの幼木です。梨の枝や雫ではありません。なぜなら、「かがんで」と言っているからです。

「移住のピユリタン」として生まれかわるために、小さな生命を犠牲にするのですから、殺される幼木に対して、畏敬の、あるいは感謝のしるしがなければなりません。それが、作者の鄭重なキスです。

そうした一部始終を、作者は、梨の“水滴”に、枝の上から見ていてほしいと願うのです。

13えりおりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
14企らむやうに肩をはりながら
15そつちをぬすみみてゐれば
16ひじやうな悪漢(わるもの)にもみえやうが
17わたくしはゆるされるとおもふ

「えりおり」は、《印刷用原稿》では「おりえり(折り襟)」になっていました。背広やワイシャツのような・折り返す仕立ての襟です:画像ファイル:折り襟
宮沢賢治の「折り襟」の服については、弟の清六氏が回想の中で述べています。1925年9月中旬、青森県西津軽郡鯵ヶ沢で兵役訓練中の清六氏を、兄が慰問した際のことです:

「私共がだんだん廠舎に近づいたとき、道のそばの小高いところに支那服のようなものを着た人が、太陽を背中にして直立し、逆行線に浮かび上っているのに気づいたのであった。〔…〕帰営して〔…〕私に面会人だというので行って見ると、兄が満面に笑いを浮かべて衛兵所のそばに居たのである。そこで私は先刻途中で立っていた人が兄であったことに気付いたのであるが、支那服と見えたのは実は黒い折襟の服で、それは繻子でダブダブに仕立てた変なものであった。


☆(注) 宮沢清六『兄のトランク』,ちくま文庫,pp.29-30.

つまり、賢治は、遠くから見ると中国服に見えるような「黒い折襟の服」「繻子でダブダブに仕立てた変なもの」を着ていたと言うのです。

「繻子(しゅす)」(朱子とも書く)は“本しゅす”のことで、“サテン”に同じ。テカテカした光沢があってヒラヒラの、豪華な雰囲気を持つ薄手の絹織物(現在は化繊布も含む)で、チャイナドレス、舞踏衣装、スカジャンなどに使われます:画像ファイル:しゅすのマント

画像ファイル:サテンのマント←こちらには、ハロウィンのコスプレ用ロングマントを出しておきましたが、宮沢賢治の「黒い折襟の服」も、こういう繻子のマントだと思うのです。

【33】「厨川停車場」には、赤い繻子のマントを着た青年が登場していましたが、賢治は、もしかすると、その真似をして繻子のマントを仕立てたのではないかと思います。

当時、大正末〜昭和初年代には、こういうマントが、詩人や小説家の間で流行っていたようです。中原中也の着ていた“ルパシカ”も、似たような服装です。

もう10月で肌寒いので、賢治は、ぼろぼろになった学校の黄色い実習服の上に、愛用の“黒い繻子のマント”を羽織っていたのだと思います。
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