ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
150ページ/219ページ



8.8.9


たしかに、これはこれで、今後何人も越え得ないほど作品に即して掘り下げた優れた鑑賞文だと思うのですが‥、「しみじみとした感じ、涙ぐましいような人恋しい、やさしさに満ちた気持ちが『きのどく』の内容であろう。」という指摘などは、ハッと頷きたくなります。──しかし、それでも、何と言うか‥それとは別の面で、不十分の感を抱かざるを得ないのです。

. 春と修羅・初版本

10鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
    〔…〕
13遠いギリヤークの電線にあつまる
14   赤い碍子のうへにゐる
15   そのきのどくなすゞめども
16   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
17   たれでもみんなきのどくになる

つまり、このスケッチは、ほんとうに、単純な自然観照だけのものなのか、そのような一般的な受け取り方だけが、作者の意図に沿う読み方なのか‥という疑問が起きてくるのです。

さきほど指摘したように、作者の目の前にあるのは、「十月」を迎えた「酸性土壌」であり、それは、「清澄沈潜の気配の流れる東北の『秋』」の自然というだけではなく、何よりも、収穫期を迎えた水田にほかならないのです★

★(注) 恩田氏も、「酸性土壌と取り組んで‥労苦した自分」(op.cit.,p.202)と書いているように、賢治の言う「酸性土壌」が、農業の現場なかんずく水田を指すことは、十分理解しておられるのですが、その正しい理解が、どういうわけか、このスケッチの鑑賞に反映していないのです。

そこで、ギトンが最初に考えたのは(以下、ギトンの“迷い”の過程をさらけ出しますが、目障りな方は飛ばしてくださいw)、稔った稲田を高所から遠巻きにして虎視眈々と狙っている「すゞめども」は、収穫物から利益を掠め取ろうとする者たち──収穫を前にして食糧が底を突いた小作人に高利で貸付けて“青田買い”をする商人たち、高率の小作料を収奪する地主たち‥等々──ではないか、という案です。

しかし、それだと、「すゞめども」が、どうして「きのどく」なのか、「たれでもみんなきのどくになる」ほど気の毒なのか、解らなくなってしまいます。。。

つぎに考えたのは、これはやはり実際に田んぼの稲を狙って飛び回っているスズメだという──何かのメタファーではなく、スズメそのものとして読む案です。稲田に入ろうとすると、すぐに追い払われてしまうのが「きのどく」だというわけです。

これだと、たしかに、“鳥獣愛護家”宮沢賢治の面目躍如‥というわけで、メデタシ、メデタシw

しかし、どこにも“追い払われる”とは書いてないのが気になります。“追い払われる”とは書かれていないのに、なぜか「すゞめども」は、田んぼから遠方の「ギリヤーク」まで避難して、そこから、おいしそうな稲穂をじっと見つめている。。。風景としては不自然ですが、その・ふとした不自然さに“詩心”があるのかもしれない‥(賢治の詩は、しばしばそうであるように‥)
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ