ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.14


「一天四海皆帰妙法」(いってん しかい みな みょうほうに きす)は、「智学の日蓮理解のキーワードであったようで」(秋枝,op.cit.,p.299)、『法華経』を「本尊」とする理想世界を、天皇を中心とする神国日本の「国土」に実現し、政教一致の絶対的「国体」の下に世界統一をめざすこと☆が、田中智学と『国柱会』の“日蓮主義運動”でした。

☆(注) 田中智学は『世界統一の天業』(1903年)の中で、「『世界統一』の道義性の根拠として、『日本書紀』巻之三(神武天皇紀)を挙げ、『神武天皇の建国主義』を説いた。そして、『世界統一の実行者・指導者』は日本国の王統だとする」(秋枝,op.cit.,p.321)

智学の思想は、
「『国体そのものは、即ち正義である』とし〔…〕日本書紀の記述と日蓮の言葉を繋いで、現体制を絶対化する方向性を持っていた。」(op.cit.,p.287,290-292)

当時、賢治は、保阪に宛てて:

「南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです あゝその光はどんな光か私は知りません 只斯の如くに唱えて輝く光です」
(1918.3.20.頃,保阪嘉内宛)

「われは物を求むるの要なくあゝ物を求める心配がなくなったなら、私は燃え出す。本当に燃え出してみせる。」
(1919.7.保阪嘉内宛[152a])

と書いて、「不可思議の光に包まれる」法悦や燃焼を夢見る狂信的な心情を吐露しています。そして、1920年『国柱会』に入会した際の書簡では:

「今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。」
(1920.12.2.保阪嘉内宛[177])

と、田中智学への絶対服従を誓っています。自己の判断を停止させて、教権に絶対服従しようとする盲目的な熱狂が見られます。それは、観念的な国家主義ナショナリズムにも繋がるものです。

「この時期の賢治の智学受容はきわめて観念的で、実際的な面は見られない。」「智学の表現の中の、プロパガンダ的、スローガン的なコピーの観念性であることが特徴的である。」
(秋枝,op.cit.,pp.303-304)

つまり、表面的なコピーの文句に心酔している状態で、逆に言えば、賢治のファナティシズムは、賢治自身の中でも表面的なものにとどまったと言えます。じっさいに「国体」護持と「世界統一」海外侵略のプログラムに共鳴して、その実現をめざす政治運動に加わるようなことにはならなかったのです★

★(注) 宮沢賢治が、島地大等の『漢和対照・妙法蓮華経』を読んで法華経信仰に“目覚め”たのは、盛岡中学校卒業後、高等農林学校受験を決めるまでの間、1914年のことだったと言われています。しかし、賢治は、法華経に感銘を受けても直ちに日蓮宗に帰依したわけではありませんでした(⇒賢治と盛岡の仏教寺院)。そして、@1918-9年頃、上記のような狂信的心情によって改宗を決意した後も、最初は、両親・親戚を巻き込んだ“一家での改宗”を希望していたこと、Aまた、後年、賢治没後ですが、父・政次郎氏もまた、島地大等の同書を熟読して法華経に“目覚め”、戦後、宮澤家一家で日蓮宗に改宗していること、Bその日蓮宗は、『国柱会』でも他の政治的宗派でもなく、奥州南部家の伝統的な日蓮宗の菩提寺を再興した独自の信仰であったこと(日蓮宗・身照寺の誘致と改宗・改葬は、1952年頃、宮澤政次郎、宮澤恒治、岩田豊蔵の3家合同で行われた。政次郎は、すでに1921年に心中では改宗を決意していたと、恒治氏は語っている。森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.445)───を考え合わせますと、賢治の法華経信仰にとって、『国柱会』など既存の日蓮宗諸派は、一時的な帰依の対象に過ぎなかったと思われます。ともかく、“宮澤家にとっての日蓮宗”は、決して賢治ひとりの問題ではなく、もともと同家の浄土真宗信仰の中に、法華経の宗教観・世界観(いわば世界宗教的な)に自己実現を見出すようなものが含まれていたと見なければならないでしょう。

それはともかく、こうした“日蓮主義運動”の《熱い》ファナティズムの心性は、賢治の創作意識には大きな影響を及ぼしたといえます。というより、中学時代以来、賢治の中で成長していた《熱い》情念が、まず『法華経』との出会いによって点火され、ついで“日蓮主義”の宗教的熱狂に触れて、大きく開花したのだと思います。

しかし、宮澤賢治の1921年の出奔は、『国柱会』での冷ややかな応対に阻まれたうえ、その年、田中智学が『国柱会』の公職から身を退いたこと、保阪嘉内と意見が合わなくなったこと、また、賢治自身出奔時の熱が冷めたことから、約半年で失意の帰郷となります。

秋枝氏によれば、そうした、絶対的信仰に対する幻滅と失意の底から出発したのが、詩集『春と修羅』であったわけですが、その前半部分には、雪に覆われた故郷の冬の《冷たい》風景の只中で、ときおり間歇泉のように噴き上がってくる《熱い》情念が描かれています。
それは、賢治のなかの悩ましい恋愛感情や《異界》視と結びついて、《心象》世界を創り上げていきます。

そして、“トシの死”をめぐる諸篇を経た【第8章】で、賢治はようやく、《熱い》世界から脱却して、新たな《心象》世界を展望しはじめるのです。

それは、“日蓮主義”の教学から距離をおき、絶対的信仰への懐疑から、閉鎖的自我の克服を模索し、「序詩」に結実してゆく思弁的思索の歩み、また、国家主義的心情からの脱却と、並行していたのでした。

「この詩
〔「雲とはんのき」──ギトン注〕においては、こういった国柱会の『男らしさ』の神話からの距離感を描いていると言える。

 〔…〕大震災後には、賢治が今までの国柱会の実践に関する方針にいずれも違和感を感じ、それを表現として定着したと解釈してよいと考えられる。」
(op.cit.,p.325)
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