ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
145ページ/219ページ


8.8.4


ジャズのほうは、『宮澤賢治、ジャズに出会う』(白水社,2009)を書いた奥成 達氏によれば:

「『ジャズ』夏のはなしです」
は、「まさに『ジャズ』演奏の流れそのものをリズミックに描いた名作のジャズ詩だといえるだろう。」(同書,p.23)

つまり、「安木節」を洋風にした程度の“ジャズ”ではなくて、本物のジャズを、賢治は聞いたことがあった、スウィングしたことがあった、ということになります。

宮沢賢治は、ジャズのリズムを取り入れた日本最初の詩人なのは、まちがえないでしょうけれども‥

こちらの年表を見ますと⇒:日本ジャズ史と宮澤賢治

結論として、日本にジャズが入って来るのは、ラジオ放送の開始された1925年以降、流行するのは1928年以降〜1930年代、ということになります。

1923年…より以前の日本のジャズといえば、ごく一部のダンス・ホールや外国人娯楽場で、フォックストロットの伴奏としてラグタイムを弾いていた程度。しかも、譜面を見よう見まねで弾くだけですから、ジャズの演奏といえるようなものだったかどうかも分からないと、奥成氏は書いています。

そうすると、いったい宮沢賢治は、どうやって《ラグタイム》やジャズの演奏を聴く機会を持ったのか?‥、まったく謎というほかはありません。。。

奥成氏によれば、唯一の可能性は、横浜港の本牧(ほんもく)周辺にあった“チャブ屋”(外国船員向け売春宿のこと:本牧グラフィティ・チャブ屋(1) チャブ屋(2))だと言います。

“チャブ屋”では、1921-22年ころ、フォックス・トロットや《ラグタイム》のピアノ演奏、また、ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られる「セントルイス・ブルース」などのレコード演奏が、毎晩行われていたと言うのです(op.cit.,p.118):音声ファイル:セントルイス・ブルース

宮沢賢治は、1921年1-8月には、家出して東京に滞在していましたし、1923年1月にも、亡きトシの分骨のために(と言われています)1週間ほど上京しています。

家出中はもちろん、1923年1月上京時も、賢治の行動については、謎が多いのです。当時東京に居た弟の清六氏も、映画のハシゴをしていたこと以外には「兄がどこへいったのか、どこにいるのかも知らなかった」★と云います。

★(注) 堀尾青史『宮澤賢治年譜』,1991,筑摩書房,p.155. 宮沢清六『兄のトランク』,ちくま文庫,pp.49,90-91,255-256.も参照。

この23年1月上京の前後には、花巻高等女学校・音楽教諭の藤原嘉藤治との交友が頻繁だったことも確認できます(堀尾,a.a.O.)

『国柱会』と法華経に献身する目的で上京した1921年はともかく、
23年1月は、藤原から情報を得て、海外の新しい音楽に接するために、本牧を(あるいは、私たちのまだ知らないほかの場所を)訪れた、ということは、考えてよいのではないでしょうか?‥

ちなみに、「火薬と紙幣」の7行目以下には:

. 春と修羅・初版本

07 四面体聚形の一人の工夫が
08 米国風のブリキの缶で
09 たしかメリケン粉を捏ねてゐる

とあります。“チャブ屋”のあった横浜・本牧は、通称“メリケン波止場”の近く‥
そのつもりで読んでみると、「たしかメリケン粉を捏ねてゐる」の「たしか」という不明な言い方も、気になりますが‥

しかし、これはちょっと考えすぎかもしれませんね。。。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ