ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.8.3


しかし、1918年以後は、ニューオリンズを中心に、本格的なディキシーランド・ジャズが始まって人気を博するようになり、ラグタイムは急速に廃れてしまいます。1923年には、ルイ・アームストロングがシカゴでメジャー・デビューし、黒人ジャズの全盛期に入ります。

ですから、この1923年には、アメリカでは、すでにラグタイムの時代は過ぎていたと言ってよいのですが、日本ではどうかというと…

本格的なジャズどころか、《ラグタイム》さえ、まだ日本ではほとんど知られていなかったのです。。。

日本でジャズが盛んになったのは、1925年にラジオ放送が始まってから…☆、主に1930年代のことだと言われているのです。

☆(注) それまでも、「ジャズ」という言葉だけは流行していましたが、その内容はというと、「安木節にクラリネット1本加えればジャズになる。」というくらい、西洋楽器のバンド演奏をすべてごっちゃにして「ジャズ」と呼んでいました。例えば、1929年に作家の佐藤春夫は、「このごろは世の中の何もかもめちやくちやだ。音楽のめちやくちやがジヤズといふものださうだ」(『読売新聞』1929.10.13.)と書いているくらいです。ラジオ放送が始まってからも、ジャズ演奏は人気のない音楽番組の筆頭でした。しかし、NHKプロデューサー堀内敬三をはじめとする人々が、啓蒙的意図でジャズを放送し続けたので、1930年代には、次第に日本でもジャズファンが増えてきた──という成り行きだったのです(毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』,2010,講談社,pp.13,37-42)。





宮沢賢治は、この1923年に、《ラグタイム》を扱った「火薬と紙幣」を書き、

1926年には、心象スケッチ「『ジャズ』夏のはなしです」を雑誌『銅鑼』に発表し、

その後、これを推敲した「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」を『春と修羅・第二集』に収録しています。

晩年まで推敲を続けていた童話『セロ弾きのゴーシュ』にもジャズが出てきます。

このように、賢治は、ベートーベンだけではなくて(笑)、ジャズにも関心を持っていたことが分かるのですが、

じつは‥、関心を持ってました……なんてもんじゃない! ↑1923年とか、1926年とか、日本一般には、まだジャズも《ラグタイム》も来ていない時期なのです!!ヽ('O゚)/ ‥ところが、「火薬と紙幣」は1924年に出た《初版本》に載ってるし、「『ジャズ』夏のはなしです」は1926年に出た『銅鑼』に載ってるんですから、時期がまちがえとか、ごまかしとかいうことはありえない‥

正真正銘、宮沢賢治は、1923年に《ラグタイム》を知っていたし、1926年以前にジャズに接していた!

「火薬と紙幣」では:

. 春と修羅・初版本

03鳥は一ぺんに飛びあがつて
04ラツグの音譜をばら撒きだ

と、鳥(あとのほうを見ると、スズメです。)の群れが、何かに驚いていっぺんに飛び上がるようすを「ラツグの音譜」と言っています。
したがって、少なくとも、シンコペの多い《ラグタイム》の楽譜(画像ファイル:メイプル・リーフ・ラグ)を見たことがあったことになります。‥それほど楽譜が読めなかった賢治の音楽の素養を考えれば、じっさいに演奏も聞いたと思わなければなりません。
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