ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.7.13


「あはれきみがまなざしのはて
 むくつけき
 松の林と土耳古玉の天と」
(歌稿B #710b711)

「うるはしく
 うらめるきみがまなざしの
 はてにたゞずむ緑青の森」
(歌稿B #710d711)

「むくつけきその緑青の林より
 まなこをあげてきみは去りけり」
(歌稿B #710e711)

菅原智恵子氏らによれば、これらは、退学事件(1918.3.)によって高等農林の学籍を失った保阪嘉内への「おもいを歌にした」ものです☆

☆(注) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,pp.68-69. 他方、小野隆祥氏は、これらを、#710,#710e711a,#710c711 と併せて“なまこ山連作”と呼び、とある女性に振られた恋愛詩だとしますが、相手の女性(自己主張の少ない当時の女性!)がデート中に怒って去って行ったとする小野氏の設定自体に無理があります。

「むくつけき/松の林」「緑青の森」「緑青の林」は、親友を理不尽にも退学させた盛岡高等農林を指していると思われます。というのは、当時、学友らは、盛岡、なかんずく盛岡高等農林を指して「杜陵」と呼んでいました:

「何故ぞ
 杜陵はいまに
 忘れさらず
 秋冷ふかく
 身にしみわたる」
(保阪嘉内 1918.11.27.)

じっさい、(現在、岩手大学正門から入ると分かりにくいのですが)当時の盛岡高等農林学校正門のほうから行くと、この学校は、岡の上にあって、鬱蒼とした木々に囲まれているのです:盛岡高等農林学校正門

「第四梯形」の最後で、“生森”を「緑青を吐く松のむさくるしさ」と詠んだ賢治が、この事件を思い出さなかったはずはないと思います。

. 春と修羅・初版本

50緑青を吐く松のむさくるしさと
51ちぢれて悼む 雲の羊毛
52    (三角(さんかく)やまはひかりにかすれ)

さらに、次の行の「ちぢれて悼む 雲の羊毛」ですが、「雲とはんのき」の「北ぞらのちぢれ羊から‥」に呼応しています。‥のみならず、保阪嘉内が再起を誓った↓つぎの詩をも想起してよいと思います:

「朋よ。今はおれは先の日のおれではない。
 あのあわれなる、小さい、ちゃちなにんげんぢゃない。
 力がある。輝きに満ち充ちてゐる。熱い心が躍ってゐる。
 ちゞれてはゐない。

 今やはち切れさうに膨れてゐる。
 げにそれは力の象兆だ。
 朋よ今やあわれみを愛するべき生き物ぢゃない。
 否 今や余は神だ。人間神だ。
 又はこれニィチェの超人だ。
 今や余は任すべきものなきを悲しむ高所に立って居る。」

(保阪嘉内:ノート『新しき生命』跋文 1919.4.16.)

つまり、「緑青を吐く松のむさくるしさ」は、1918-19年の《熱した》精神の象徴である「ちぢれ羊」「ちぢれた雲」とともにあるのです。それが「ちぢれて悼む」のは、その後の行きがかりによって保阪との間に開いてしまった距離を「悼」んでいるからです。

このように、「第四梯形」は、その開始においては、「あやしいそらのバリカン」が、こんもりした丘々の樹木を刈り払って、「梯形」の形にしてしまうという一種自虐的な想念に駆られていたのでしたが、保阪らとの友愛の時代が思い起こされたことによって、作者の内奥にある意識を再確認する結末になりました。

もちろん、作者はもはや《熱い》精神の再燃を求めようとはしないのですが、

52(三角やまはひかりにかすれ)

という最後の行は、「北ぞら」の彼方に聳え立つ“銀河の誓い”の場所・岩手山を、振り返って望みつつ、新たな行く手に向かおうとしているように思われます。
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