ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.13


公刊詩集『春と修羅』は、『国柱会』の絶対的信仰に対する幻滅から出発した賢治が、前nのような「序詩」の認識に到達するまでの試行錯誤と揺らぎの過程を、《心象スケッチ》という詩的方法によって記録したものと言ってよいと思われますが、ギトンは、とくに賢治の《他者》論を中心に、この過程を追いかけてきました。

しかし、秋枝氏は、より広く、同時代の宗教・科学思想の詳細な分析に立って、この過程を解明しておられます。

かつて、1918-19年ころ、賢治は、第1次大戦後の海外進出の波に乗って南洋群島(日本の委任統治領となった)へ雄飛してゆく同窓の卒業生たちをまぶしそうに眺め、他方で徴兵検査にも不合格だった己をそれと比較し、「将来の問題をめぐって懊悩が続いた時期である。」
(秋枝,op.cit.,p.135)

「賢治は焦燥感にかられて日蓮主義者になったのであった。そのころの賢治の書簡には、『一天四海皆帰妙法』が繰り返され、『太平洋新文明の曙光』という言葉も登場していた。」
(op.cit.,p.314)

「この時期の書簡に彼の心象を追ってみると、そこには一種の自我主義的な傾向が顕著である。」
(op.cit.,pp.135-136)

それは、観念的でファナティックな『法華経』の信仰へ向かうとともに、国家主義的な、ナショナリスティックな熱狂にも結びついています。

賢治が当時、書簡で
「信仰のことを語るとき、必ずと言って良いほど、『一天四海』『光』『空』『雲』といった決まり文句がある。それは、いずれも田中智学の用語の影響下の表現であり、この当時の信仰のあり方が、独自のイメージの中に閉じこもる閉鎖的な世界であったことを示すように思われる。しかも、それは、まぶしい、熱っぽい心象世界であって、熱狂的な雰囲気に包まれていると言って良い。」(op.cit.,pp.135-137)

「賢治の国柱会への接近は、第一次世界大戦後から昭和初期にかけての、国家意識の再編の初期に重なっていると言える。〔…〕『「光」「光明」への直接の接触という観念に渇いている』時代の訪れがあったという指摘」
を大岡信がしているが、「賢治の国柱会への接近には、そうした傾向が確かにあると言える。」(op.cit.,pp.305-306)

「戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」
(1918.1.23.宮澤政次郎宛[46])

「仮令シベリヤに倒れても瞑すべく〔…〕私一人は一天四海の帰する所妙法蓮華経の御前に御供養下さるべく然らば供養する人も供養の物も等しく光を放ちてそれ自らの最大幸福と一切群生の福祉とを齎すべく候」
(1918.3.10.宮澤政次郎宛[48])

「ねがわくは一天四海もろともにこの妙法に帰しまつらなん」
(1918.3.14.成瀬金太郎宛)



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