ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.11


しかし、「雲とはんのき」では、作者は、「一挺のかなづち」を携え、自分の力で価値あるものを掘り出すべく、狂おしい旅を歩んでいるのです。「石灰岩のいい層」が何を意味するかも難しいですが、賢治のこの時点までの経験に引き寄せて言えば、@酸性土壌を改良する石灰肥の原料(盛岡高農の関教授が提唱)、A建築材料として採掘加工(賢治は自営事業として計画したことがある)の2とおりが考えられます。いずれにしろ、石灰岩は、そのままでは宝石でも何でもなく、社会に供給してはじめて意味があります。

つまり、「雲とはんのき」では、作者の歩みは、その外観のふんいきにもかかわらず、孤独な求道のみちすじではなく、社会とのかかわりを意識したものです。

それでは、「雲とはんのき」で、作者はどこへ向かっているのでしょうか?

「これら葬送行進曲の層雲の底
 鳥もわたらない清澄な空間を
 わたくしはたつたひとり
 つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら」

「葬送行進曲」が鳴り渡るような、重苦しい陰気な空の下で、厚い雲と山並みに挟まれた狭隘な空間──そこだけ、遠くの澄んだ空が狭い筋になって見える──を目指して、次々「冷たいあやしい幻想を抱きながら」進んで行くのです。





この・行く手の空間は、「屈折率」で目指されていた無人の自然、あるいは天上世界ではなく、人々の苦悩が渦巻く人事の世界のように思われます。

というのは、この前後の詩篇をも併せて考えると、当時、作者を揺り動かしていたのは、折りから勃発した関東大震災(1923年9月1日)の衝撃と思われるからです。

「雲とはんのき」の日付は8月31日で、震災の一日前ですが、この作品は、入沢氏によれば、あとから《第2段階》で【印刷用原稿】に追加されたものですから、震災のニュースに接した衝撃を記している他の詩篇(「宗教風の恋」「昴」など)の成立よりも後で完成されたものなのです。

当時、宮澤賢治が震災のニュースや、避難して来る人々に接して、大きな心理的衝撃を受けていることは、栗原敦氏などが指摘しています☆

☆(注) 栗原敦『宮沢賢治──透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.110f.

震災の衝撃とは、被害地から離れた場所にいた賢治にとっては、従来の価値観や精神的世界の崩壊という意味が大きかったように思われます。ゆるぎなく思われていた価値や秩序が崩壊し、「あてにするものはみんなあてにならない」(昴)流動的で不確実な世界が現出したのです。

賢治の場合には、震災のインパクトから、ただちに社会に関心を持ったり、社会事業に向かったりという方向には行かなかったと思われます。そうした実践的な受けとめ方ではなく、まずは、思想や世界観に対する衝撃として受けとめたのだと思います★

★(注) これは、震災後ただちに救援隊を組織して東京の被害地に向かった保阪嘉内とは対照的です(大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,p.112)。この相違は、被害地への距離のためだけではなく、この2人の資質の違い(実践的・外向的な嘉内と、思弁的・内向的な賢治)◇を示していると思います。

◇(注) 嘉内の次男・保阪庸夫氏が2人の資質の相違に注目しておられます。
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